井の中の蛙 ジンベイを知らず

されど、ほにゃららの深さを知る

強すぎる価値観「~すべき」

少し前に知人とこういう話をした。

 

あるレストランでのこと。

子どもがお皿の中に手を突っ込んだり、大声を出したりしていた。それに対してその子の母親は『これが私の教育スタイルです』と言わんばかりに、子どもに注意したり叱責したりすることなく平然と過ごしていた。

周りのお客さんは迷惑そうにチラチラとそのテーブルを見ていた。

しばらくして、お店の人がそのテーブルに声を掛け、最終的にはその親子はお店を追い出された。

 

 

「それは大変でしたね」と私が言うと、知人は「どう思う?」と。

 

質問の意図が分からずにいると、

「この母親は、周りの反応から、自分の教育スタイルを反省するべきだと思うのだけど」

 

つまり、どうやら彼は【周りの反応を見て、自分の間違いに気付くべきだ】と主張したいらしい。

 

 

心理学的には、この「~すべき」という考えは、他者との色んな衝突を生むことが知られている。(認知行動療法ではこの価値観を「べき思考」と言ったりもする。)

 

「~すべき」というのは、個人の中にあるさまざまな価値観の中でもかなり重要度の高いものである。

 

本人にとって重要度が高いだけでなく、その価値観が「絶対に正しいもの」であると信じている。絶対に正しいので、他人もその価値観を持つことを強要したり、他人がその価値観に反するような行為をすると非難したりする。

 

しかし多くの人が知っているように、価値観というものに「正しい」「正しくない」はない。

価値観の正しさは、時代や状況や立場に応じて変化するものであり、色んな見方がある。同じ価値観でも、ある人にとっては正しく、ある人にとっては間違いとなりうる。

 

先ほどの知人の主張は、少なくとも今の彼にとっては「子育てをする際には、母親が周りの反応を見ながら、自分の教育観について適宜見直す」ことが「正解」であるのだろう。

 

 

こうなると、議論の余地はない。

知人は「どう思う?」と私に聞いてきたが、ここで私が何か別の価値観を言ったとしても、それがその知人にとって考えたこともないような新しくて面白い意見でない限り、聞き入れてはもらえないだろう。完全に平行線をたどる。

 

 

知人とのその会話は、仕事のミーティングの延長でなされたものである。私は完全に議論する頭でいたが、『あ、これはミーティング(意見をすり合わせる作業)ではないな』と思い、頭のスイッチを切った。

 

価値観は議論してもあまり意味がない。埋まらない溝が深まるだけだ。

 

 

 

誰かに対して「なんであの人はあんなことが出来るの?!?信じられない!!」と憤慨している時は、自分の強すぎる価値観がないかを考えてみると面白い。

 

きっと、『こういう時は○○すべきだ』とか『人は○○すべきだ』という価値観があるはずである。

そしてそういう価値観は、あまりに(自分にとって)正しすぎて、当然すぎて、ほとんど無意識のうちに身に付いているものだ。当たり前すぎて気付かない。

 

ただ、 自分の価値観を相手に押し付けて、それを受け入れてもらえずにイライラするのは時間と元気の無駄遣いだ。

 

 

何を隠そう、私も上記の知人との話の際に何か強い価値観を持っていたようだ。

例えば【ミーティングという限られた時間の中では余計な話をするべきじゃない】とか。まだ他にもありそうだ。

あの時、わけもなく不快で、面倒くさくて、イライラしていた理由がこの記事を書いていて分かった。

 

 

「~すべき」という価値観は自分を守るものでもある一方で、強すぎるために自分を苦しめる可能性もある。

価値観は誰かに押し付けて、それを聞いてもらえずに勝手にイライラしてしまっていないか、私も注意しなければいけないなぁ。