井の中の蛙 ジンベイを知らず

されど○○の深さを知る

孤独感って実は幻想らしい…???

昨日、孤独は避けようとすればするほど増加するものだ、という話を書いたのだけど、ちょうど最近、家庭教師をしている高校生のお子さんからこんな話を聞いた。

 

「孤独感は、他者の孤独感を投影したものらしい!

つまり、私自身の中に孤独感があるのではなくて、他者が持っている孤独感を勝手に感じて、まるで自分が孤独であるように感じてしまう、ってことみたい」

 

 

彼女の説明によると、

  • みんな孤独感を和らげたくて集まっている。
  • でも、残念ながら孤独感は“他者の孤独感を勝手に投影しているだけ”なので、自分の中にあるものではない。
  • ゆえに、みんなで集まっていても孤独感が和らぐことはない
  • つまり、人の集まりは孤独感の塊みたいなもの。
  • それを見て、周りの他者が勝手に孤独感を感じてしまっている。
  • ということは、孤独感というものは、自分以外の他者の集まりが勝手に作り上げたもので、自分のモノではない。

 

ということのようだ。

 

 

つまり、孤独感というものは自分の中で生成されたものではなく、他者の感情を勝手に自分のなかに取り込んだもので、幻想のようなものまぼろし
そんなフワフワしたものを解消しようとしても無理だし、そもそも(相手の)孤独感なんて感じる必要はない。

他者の感情を勝手に取り込んで悩むのではなく、ちゃんと自分の気持ちと向き合いなさいよ~

っていう理論らしい。

 

誰もわかってくれない「孤独」がすぐ消える本

↑↑ 彼女が読んでいた本 ↑↑

 

 

前回のブログで「孤独を押し付けられるのが一番堪える」と書いたが、それってこの話に似ているのではないだろうか。

つまり、孤独というものは、押し付けられたものであって、自分の中から自然に発生したものではない。だから、前回の話で悩み多き女子中学生たちが「一人になること自体よりも、周りに「あの人は一人だ」と評価されることの方が堪える」と言っていたのは、かなり的を得た意見だったということだ。

 

 

誰かと一緒にいても孤独を感じることってある。

みんなで盛り上がってこんなに楽しい時間を過ごしているのに、冷静な自分が外野から見ているような感じ。

みんなでいるのに、ひとりぼっちな感じ。

 

こういう感覚って、特に女性なら一度は感じたことがあるんじゃないかって思う。

 

でも、こんな風に感じる理由が、「そもそも孤独感というものは幻想で、対処すべきものは他にあるんだよ」と言われたら、なんだかちょっと腑に落ちる感じはある。

 

 

孤独感の脱却の仕方って色々あるんだろうけど、少なくとも“誰かと一緒にいること”では脱却できない。それはきっと多くの人が経験済みである。

 

 

私が少し孤独感と仲良くなれたのは、

『他人の気持ちが100%分かることはないし、自分自身の気持ちさえ100%分からない。分かったとしても、それを言葉にしようとしたらぴったりくる言葉が浮かばない。つまり、自分の気持ちを100%相手に伝えることができない』

そう考えたら、人って絶対に孤独から抜け出せないんだな、と思い、なんだかそれがしみじみ実感できた時に(矛盾しているけれど)孤独感から脱却できた気がした。

 

良い意味で諦めがついたのだろう。

孤独感から逃げることって絶対に出来ない、じゃあ逃げるじゃなくて、うまく付き合おう。そう思ったら、別に孤独感が悪の存在ではなくなったし、『別に良いか』って思えるようになった。

 

 

でも、なるほど。

そもそも孤独感って幻想だったのか。そりゃぁ、解消しようとしても消えるどころか増幅していくわけだ。

孤独を避けようとすればするほど孤独になる理由

「孤独」というのは、(少なくとも、孤独を避けようとする人にとっては)とても寂しく、心細く、辛く、非常に耐えがたいものだろう。

 

仕事柄、中学生や高校生と接することが多いのだが、特に女子の場合は、一人になりたくなくて必死に友だち付き合いをしている子が多い。

自己主張はし過ぎず、意見の違いは飲み込み、当たり障りない反応をする。

それで楽しく過ごしているのであれば良いのだが、問題は、そのために彼女たちは心をすり減らしており、気持ちが病んでしまうことがあるということだ。

 

三者の私から見ると、頑張りすぎ、と言いたくなる。
そんなに心をすり減らしてまで頑張る必要はない、と言いたくなる。

 

でも、彼女たちにとっては死活問題。

自分の心をすり減らしてでも一人になることは避けたいようだ。

 

確かに、一人になるというのはなんとも心細いことではある。
特に高校生や中学生の場合においては、教室という狭い世界で1日の大半を過ごすことになるのだ。“クラスの団結”を必要とされる行事やイベントだってある。

 

学校というのは、たまたま近くに住んでいて、同じ年齢である、という括りだけで構成された集団なので、合う人合わない人がいるのは当たり前だ。クラス目標の【みんなと仲良くしましょう】はなかなか難しい要求である。 

そんな集団の中で、なんとか仲良く、一人にならないように、成熟途中の人同士が気を使い合って生活しているのだから、中学生・高校生のストレスといったらとんでもないものだ。

 

 

中学生や高校生の時期というものは、心理学的に考えても、

自分のことを知りたい、自分のことを誰かに知ってもらいたい、共感されたい、共感したい

こんな気持ちでいっぱいになる時期である。

 

だから、自分の心をすり減らしてでも一人にならないようにしたいという気持ちは当たり前の心理であると思う。

 

誰かがいなきゃ、自分のことが分からない。

自分のことを知るためにも、相手のことを知って仲間意識を持つためにも、誰かの存在が必要だ。

 

 

しかし、悩み多き女子中学生たちの話をちょっと聞いてみると、意外なことが分かった。

どうやら、本当につらいのは、“一人である”という事実よりも、『あの子、一人なんだ』と周りに思われることらしいのだ。

 

一人でいることで、周りから『寂しい人』『ノリが良くない人』『何か問題がある人』と勝手に評価されることが、意外と一番堪える。

孤独自体がつらいものなのではなく、孤独というものを周りから押し付けられることがつらい

 

 

…なるほど。なんか、分からんでもない。

 

 

「あの子、一人だよ」と嘲笑う人たちは、確かにいる。

そういう人たちは、一人でいることを極端に嫌っている。一人になりたくなくて、孤独になりたくなくて、なりふり構わず必死に生きている。

 

一人でいるという事実は、自分がどんなに薄っぺらで、不幸で、可哀想な人間なのかを証明するものなのだと本気で思っているのだろう。

そういう、孤独を押し付けてくる人たちは、どうやら孤独というものを<悪>として捉えているようだ。

 

 

大人になると、孤独は<悪>ではないことを知る。

そもそも善悪で判断するものではないことを知る。

 

心が少し大人になった時、孤独は別に悪いものじゃないって気付く。
それに気付いている集団は、とても心地よい集団なのだろうな、と思う。

みんながきちんと一人で存在していて、そういう人同士が集まると個々の力を尊重し合い、自由にのびのびと自分らしく過ごすことが出来る。

 

 

逆に、社会人になっても孤独の罠から抜け出せずにいる人たちもいる。

孤独は孤独を呼び寄せ、その集団に属する人たちは、集団で過ごしているのに孤独感が解消されることはない。
いつも心のどこかで、『どうせ誰も私の気持ちなんて誰にも分からない』と感じる。

 

孤独になりたくない、と強く思えば思うほど、孤独を解消したい者同士の”孤独な集団”が出来上がる。この集団は、残念ながら、安定した心地よい人間関係とはいえない。

目の前の孤独感は薄れるだろうが、その場しのぎの対処に過ぎず、結局いつまで経っても心の底にある孤独感から解放されることはない。

 

どうやら孤独というものは、避けようとすればするほど増加していくものらしい。

仕事の話っていつするのが正解なの…?

セクハラ、パワハラ、マタハラ、なんやらかんやら、色んなハラスメントが話題に上がるようになって久しいが、最近ちょっと『もしかして私、パワハラしてる…?』と不安になるようなことがあったので書いてみようと思う。

 

 

話は数日前。

我が家にぼてちんの後輩が遊びに来てくれた。

ぼてちんもその後輩くんもカレーが好きで、よく家で作っている。そこで、お互いにカレーを作って持ち寄ってカレーパーティをしようということになったのだ。

 

ライスをお皿の真ん中に線を引くように細く盛って、その両サイドにそれぞれのカレーを注いだ。めっちゃ豪華でおしゃれで素敵すぎるカレーが出来上がった。

 

後輩君のカレーが美味しすぎて、ぼてちん、ちょっと悔しそうだった(笑)

作り方の違いとか、スパイスの違いとか、あらゆることを後輩君から聞いて、色々と教えてもらっていた。

 

からしたら、どっちもお店みたいな味がして絶品だったのだけど。

 

 

カレー食べて、お喋りして、お酒飲んで、お喋りして、お菓子食べて、お喋りして、レコード漁って、お喋りして。

その後輩君は結構長い時間、我が家にいてくれた。久しぶりに後輩君と会って、色んな話を聞けたのは私としてもとても楽しいことだった。

 

 

その延長で、ちょっと仕事の話になった。

 

何を隠そう、私は仕事のことを考えるのが大好きである。まぁ、私にこれといって趣味もないということも災いしているが、仕事をしている時が一番楽しい。ましてや後輩君のしている仕事は、私が1年前までガッツリと関わっていた児童福祉分野。

どんなことを考えながら仕事をしているのかとか、仕事をしてて楽しい時とか、なんかそういうことを聞きたくて仕方ない。

 

すると、先ほどまで饒舌だった後輩君が、明らかに反応スピードが落ちたのだ。返答に時間がかかるようになった。

ちょっと前までカレーの話やレコードの話、音楽の話であれだけ口数多く、ポンポンと会話のキャッチボールが出来ていたのに、途端にスピードが落ちた。

 

その時に思ったのだ。

(職場は違うので私は先輩というわけではないが)『これって今、パワハラになってる…???』

 

 

「仕事の話って嫌い…?」と恐る恐る尋ね、「楽しい時間を過ごしてほしいと思っているから、嫌いだったら申し訳ないと思って」と付け加えた。

 

後輩君は優秀な人で、きちんと「嫌いではなく、ただ、自分の仕事に関して言葉にすることをあまりしてこなかったから、どう言えば良いのかと考え込んでしまう」と教えてくれた。

 

これが、私にものすごく気を使ってくれた故の返答だとしたらそれはもう本当に心の底から申し訳ない気持ちではあったが、ありがたく彼の言葉をそのまま受け取らせてもらうことにした。

しかしやっぱり、相当なエネルギーを消費させてしまっているのは事実だったので、その後は仕事のことについて話を深めることはやめた。

 

 

後輩君は「普段、仕事以外で仕事の話はあまりしない」と言っていた。仕事のことを考えるのは、仕事からの帰り道くらい、と。

 

 

 

私が社会人になってすぐの頃を思い返すと、先輩との話と言えば、共通の話題である仕事の話になることがほとんどだった。

別に私が仕事熱心だからではない。ただ、趣味のない私には、共通の話題がそれくらいしかなかったのだ。

 

これまでの仕事の失敗談や、今読んでいる本の話、仕事に役に立ちそうな学会がいつあってどんな内容なのか、心理士としてどう立ち振る舞うのが良いのか、色んなことを教わった。そうやって、先輩の考え方とか価値観に少しずつ触れていった。仕事場ではちょっと堅苦しくなるような話も、帰り道だとざっくばらんに話してもらえたし、私も質問がしやすかった。

 

先輩と一緒にいなくても、私は朝も夜もいつも隙があれば色々と考えていた。

もちろんその日の反省とかもたくさんあったが、それよりももっと根本の、自分の価値観とか教育観とかそういうことを考えることが多かった。自分の中で当たり前すぎて今まで気にもとめていなかったことを振り返り、それをどうにか自分の言葉にしてみるということをしていた。そして、チャンスがあれば先輩に自分の考えを聞いてもらった。そうやって、知らないうちに自分の中に根付いていた価値観に少しずつ気付いていったのだと思う。

 

仕事について考えることと、自分がこれからどうやって生きていくかについて考えることは、ほとんど同時だったし、内容も繋がっていた。仕事のことを考えることは、自分の人生について考えることと等しかった。

私が心理士という仕事をしていて、児童福祉という分野で児童虐待やDVなどが身近にある現場で働いていたからなのかもしれない。仕事をしているとどうしてもクライエントの生活環境や考え方に触れる機会が多いし、それは自分のこれまでの人生やこれからの人生と照らし合わせる作業でもあった。

 

少し話が逸れたが、私の知っている“仕事を一緒にする人との関係”って、こういうものだ。

話題は仕事に関連したものばかり。

 

だから、むしろ逆に、仕事相手と仕事以外の話をすることに違和感がある。

休日は何をしているのかとか、彼氏はいるのかとか、趣味は何かとか、そりゃ相手から聞かれればなんでも答えるし、相手が話してきたら聞く。ただし、こちらから積極的に相手の近況を尋ねるつもりはない。なんとなく、仕事相手のプライベートを知ろうとすることに抵抗がある。見てはいけない部分というような感覚がある。

 

職場の人と仲良くなるために自分のプライベートをさらけ出すのではなくて、仕事をしているうちに気が合って、その結果プライベートまでさらけ出すようになった、という順番の方がしっくりくる、という感じだ。

 

 

仕事はそれなりに意思疎通が出来ていないと進まない。

特に、児童福祉分野とか教育分野とか、色んな人と関わりながら、誰かの生活を支援するような仕事となるとなおさら『その人がどんな人なのか』というのを知っておきたいと思う。

『その人がどんな人なのか』は、プライベートな部分のところを知っておきたい、というわけではなくて、仕事に対してどんな考えを持っているのかを知りたいということである。

 

 

別に、“仲良くなるために→飲み会をする”のではない。“仕事をしやすくするために→飲みに行く”のでもない。

ただただ、仕事を一緒にしているうちにその人のことが気になって、もっと話したいな、もっと色々と聞きたいなと思って、帰り道が一緒になったり、ちょっと寄り道をしてみたり、飲みに誘ったりご飯に行ったりする。そうやって少しずつプライベートな部分が出てくる。

 

そういう順番が私の中では一番しっくりくる。

 

そう思うと、じゃあ仕事の話って、今の時代、いつするんだろう…。

特に後輩を育てるという立場になった時、どうやるんだろう…。みんな、どうやってるんだろう。

業務時間内に出来る話といえば、きっと目の前の仕事の話に限られるだろうし、話せる時間も限られている。仕事内容がただの作業なら、その話は業務時間内で済ませれば良いのだけれど…そうもいかないだろう。

 

別に話さなくても大丈夫なのかな。ってかそもそもこういう話をすること自体が寒いのかな…時代遅れなのかな(笑)

 

 

ま、今は一人職場で後輩とかもいないから、私が今心配することではないのだけど。

決断の先延ばし

最近、私の悪い癖を発見した。

悪い癖というか、これが変わるとちょっと生活が変わるのでは、と思う癖だ。

 

それは、【決断の先延ばし】。

 

前々から気付いてはいたが、それこそ「先延ばし」にして長い間見ないふりをしていた。

 

 

無意識に色んな場面で決断の先延ばしをしているので、もはや例も思いつかないのだが、最近こういうことがあった。

 

旦那さんのぼてちんとお買い物デートをしていた時。

別に買いたいものはなく、なんとなくお店が並ぶモールの中をぶらぶらしていた。

たまたま入ったお店で見つけたネックレスが気になった。

 

『めっちゃ可愛いなぁ~。こういうの、欲しかったんだよなぁ~。』

 

ショーケースの前で数分、そのネックレスをガン見。
そのネックレスをつけてみた自分を想像して、ムフフとなった。

 

そして、「保留!」と言って、ぼてちんと店内の別のものを見て、そのままお店を出た。そして他の店を回って帰宅した。そのお店に戻ることはなかった。

 

 

あのネックレス、これを書いている今でももう一度見たいなぁと思うくらいには気になっている。

しかし、「買う」という決断も、「買わない」という決断もせず、保留のような状態になっている。書いている今も、「買わない」とも「買う」とも決められない。

お店でネックレスを見た時に脳内で色々と想像して、それだけでちょっと満足したという面もある。買えなくてもそこまで不満じゃない。そりゃぁ買えたら嬉しいけれど。

 

 

これが私の日常だ。

別に、買うのか買わないのか決めなきゃ!とは思っていない。ただ単に、まだあのネックレスが記憶に残っている、というだけだ。

これが日常だから、ぼてちんもそんな私のことを気にしないし、私自身、特に気にすることもなかった。

 

 

しかし先日、義母とアウトレットに行った時に自分の「決断の先延ばし」の性質がよーく分かった。

 

これもお買い物の時。

義母が入ったお店に私もついて行った。靴屋さんで、義母は義父のためにサンダルを見ていた。私も私で、自分のサイズのコーナーを見つけて物色していた。どのお店に行っても、私の足のサイズが大きいのでなかなか可愛い物が見つからないが、1つ、気になるサンダルを見つけた。履いた様子をぼてちんにも見てもらって「おー!いいやん」との感想ももらった。

 

しかし私は、買う決断が出来なかった。

なかなか出会わない、大きめサイズの可愛いサンダル。

 

なのに、特に買わない理由もないのに、店の外に出た。

 

店を出てぼてちんが「あのサンダル、買わなくて良かったの?」と聞いてくれた。

私が「ちょっと保留!」と返し、ぼてちんが「可愛いのに~。サンダル、ないんでしょ?」と念押しする。

私も「そうなのよね~まぁ保留!」となんとなく返事をして、そのまま歩いた。

 

たぶんいつもだったら、このまま別のお店に行って、結局お店に戻ることなく帰宅し、あのネックレスみたいに『あれ、可愛かったな~』と物思いにふけるのだろう。

 

 

しかし今回は違った。

義母という、いつもとは違うスパイスが効いていた。

 

義母が「買わなくて良かったの?」と聞いてくれ、ぼてちんが「サンダル、前から欲しいって言ってたのにさ」と会話に入る。

 

すると義母がすぐに「じゃあ買いに戻ろうよ!」と言った。

 

最終的に、義母にサンダルを買ってもらい、私の今年の夏のサンダルが手に入った。

玄関に近づくたびに、シューズボックスに入った新しいサンダルが何度も目に入るから、自分が思っている以上に相当気に入っているのだろう。

 

 

義母のあの決断の早さというか、展開の早さにびっくりしたと同時に、私に足りない能力はこれだなと感じた。そして、自分が普段から「保留!」と言って決断を先延ばしにして、いつもなんとなく消えていってくれるのを待っていたのに気づいた。

最初に出てきたネックレスに関しても、このままお店に行く機会がなければ買えないし、ネックレスが売れてしまったら買えない。そうやって“ネックレスが” 消えてくれるのを待っていたのだ。

 

きっと買い物の時以外にも私のこういう癖は沢山出ているはずで、仕事とか、何かのチャンスとかを、私は決断せずに先延ばしにして、結局手に入れることが出来なくなってから『仕方ないなぁ』とぼんやり思っているのだろう。

そうやってこれまで色んなことを諦めてきた。

 

でも今回なんとなく、選択肢が消えるのを待つだけじゃなく、自分から掴んでいくのも面白いのかもしれない、と思った。

 

自分の人生が充実していると感じる時は、自分で物事を決めたという感覚が持てた時だという。選択肢が一つしかない時、人は自分で決めたという感覚が持てず、自分の人生なのに自分でコントロールしている感覚が持てないので、人生への充実感が下がってしまう。

 

これは心理学を勉強していたら分かることだし、業界内でカンファとかしていても当たり前のように語られるものである。そもそも、心理学を勉強せずとも、当たり前すぎる話かもしれない。

でも、今回、しみじみと実体験として感じられて、そして気付きとなって自分の中に入ってきた。

 

私の場合、脳内で幸福感を得られている節もあるので、決断の先延ばし(からの、選択肢の消失)も活用しつつ、自分から掴みにいくという姿勢も新たに取り入れてみたい。

 

久しぶりに義母と会って、いつもと違う空気を感じることが出来たから、こういう気付きを得たのだと思う。

これからも色んな人と出会って、色んなことに実感を持って気付いていきたい。

励ますということ

昨日、スクールカウンセラーとして働いている中学校の生徒さんと雑談をしていた時、その子がめっちゃ良いことを言っていた。

 

「正直、落ち込むこともたくさんあるけど、落ち込んで何も出来なくなってても結局自分の目標には到達しない。落ち込んでる時も、楽しい気持ちとか明るい気持ちを持つことは出来るから、出来るだけそういう気持ちを出していきたい」

 

2週間前まで、空元気で踏ん張っていた子だった。

「○○でなければいけない」「私が△△しなくちゃいけない」と正義感ばかりが先行し、それが重荷になってしまっているように見えていた。出来ないことをやろうとして失敗して落ち込むタイプの子だった。

 

それが、2週間ぶりに会ってみたら、表情も明るく、何か吹っ切れた様子だった。

聞いてみると、先ほどのようなことを言ってきたのだ。

 

失敗して落ち込んで、傷ついて、悲しい気持ちだけで心をいっぱいにするのではなくて、明るい気持ちもその中に同居させることが出来るし、そうすると少しずつでも前へ進める、ということにその子は気付いたらしい。

 

中学生の成長ってなんと速いものだろう。

そう思いながら、なんだか痛いところを突かれたような気持ちで、自分の私生活を反省しながらその子の話を聞いた。

 

 

失敗した時、やることが山積みになる。

失敗した原因を考え、その対策を考え、再挑戦のプランを練る。書いたらたったこれだけのことだけど、それがなかなか出来ないでいるのは、その前に「立ち直り」というプロセスが必要になってくるからだ。この「立ち直り」に時間や手間がかかる人とそうでない人がいる。

 

先ほどの子の場合、周りの友だちからの声かけや応援がかなり良い風に働いたようだった。

先日体育祭があり、自分の成績はあまり良くなかったが、クラスメイトが「大丈夫!」「良かったよ!」と声を掛けてくれた、とその子は照れたような笑顔を見せて話してくれた。

 

人が立ち直る時に必要なのは誰かの存在だ、というようなことをどこかで聞いたことがあるような、ないような…。

 

でも中学生を見ていると、立ち直る時には誰かの存在が大きく働いているのが良く分かる。それは友だちだったり、先生だったり、親だったり。直接励ましてもらう場合もあれば、誰かを想像して励まされたような気持ちになる人もいる。

 

 

少し前にCMで「大人も褒められたらうれしいものだ。だから褒めよう」みたいな内容のものがあったけれど、実は褒めるってなかなか難しいものだと思う。

 

でも、「励ます」ってどんな関係でも出来ることかもしれない。

大人同士になるとなかなか“ほめる”のは照れ臭いし、なんだか上から目線になってしまって気が引けるけれど、“励ます”のは対等の関係でも出来ることなので変な上下関係を意識しなくても出来るかもしれない。

 

自分自身に対しても同じことがいえそうだ。

自分で自分のことを褒めるのは難しいけど、自分で自分のことを励ますのは出来るかも。自分の良いところなんて分かんないけど、『大丈夫だよ!』って自分を励ますのは出来る気がする。

 

自分にも、他人にも、”励ます”というのをちょっと意識してみたい。

「好きにして良いよ」と言われてどう感じるか

ぼてちんの職場での話。

子どもに「好きにしたらええで」と言うと、そのうちの一人が「なんで?!怒ってるの!?」と言ってきたらしい。ぼてちん、びっくり。

 

ぼてちん🐸「なんで“好きにしたらええ”という言葉で、怒ってる可能性があるんやろう?」

 

 

その子の気持ち、ちょっと分かるなぁ…と思ったので、今回はそのことを書いてみようと思う。

 

 

私の母は「好きにしなさい」と良く言う人だった。

私にとってこの言葉は恐怖でしかなく、昔からこう言われるのが嫌で仕方なかった。

 

母が「好きにしなさい」と言う時には、

・私の言う通りにしなさい

・これだけ言っても従わないのなら、もう勝手にしなさい

・その代わりあなたのサポートは一切しません

という意味が含まれているように感じていた。

 

最初の頃は母の言葉の通り、自分の好きにしていたのだが、まぁ昔から不器用でおっちょこちょいな性格なので失敗することが多かった。

失敗すると必ず「なんでそんなことをしたの」と怒られ、呆れられ、そして、最初に母が提案していたやり方をすることになるのだった。失敗自体も相当イタイことだったが、それ以上に、母の冷たい怒りにはこたえた。

 

私が「こうしようと思う」と言って、母が「好きにしなさい」という時には、すでに母はめちゃくちゃ怒っていた。見捨てられる恐怖を感じた。おそらく母が想定するやり方と私がしようとしていることが違っていたのだろう。好きにして良いわけもなく、私はすぐに考えを改め、母の考えるやり方を実行するようになった。

 

 

ぼてちんは良く「好きにしたらええ」と言う。

 

付き合い始めの頃は、普通にその言葉が怖かった。好きにして良いわけがない、と反射的に思った。

すると、ぼてちんの期待する答えは何だろう、どうすれば怒られずに済むだろう、という疑問で頭がいっぱいになる。考えても答えが出るわけもなく、しかし考えないわけにもいかず、考えすぎて結局何も出来ずに、中途半端な結果となって、ぼてちんに叱られることが多かった。

 

ぼてちんは、まさか私がこんな風に考えてしまっているなんて思ってもいないので、ただただ私の中途半端な取り組み方とその結果に呆れていたのだろう。

 

そして私自身、ぼてちんの「好きにしたらええ」を、母の言う「好きにしなさい」と無意識に重ね合わせ、同じものとして扱っていたことに気付いていなかった。

 

 

最近になってようやく、ぼてちんの言う「好きにしたらええ」という言葉と、私が今までに浴びせられた「好きにしなさい」が異なることを知った。

そして、実際に好きにやってみて、その後にぼてちんが怒る(というか指摘する※)のは、失敗の原因である“私の考えの浅さ”や“甘さ”に対してであることも分かってきた。母のように、自分(母)の考えに従わなかったことに怒っているわけではないということが、やっと分かった。

 

(※ぼてちんは身体が大きく、声もデカいし、バリバリの関西弁でまくしたててくるので、ちょっとした指摘でも怒られているように聞こえるのだ🤣)

 

 

ぼてちんは失敗すること自体には怒ったりしない人なので、ぼてちんに「好きにしたらええ」と言われると気楽に失敗できて良い。まぁ本当に大抵は失敗に終わり、「ちょっと考えたら分かることやろ」と指摘され、自分のアホさ加減を知って落ち込むことになるのだが…。

 

 

「好きにしたら良い」という言葉をどう感じるかは、その人がこれまでにどんな人からどんな風に言われてきたかによって全然変わってくると思う。

同じ言葉でも、その言葉に含まれるニュアンスはその時の状況や相手によってかなり異なる。だからコミュニケーションは難しくって面白いのだろう。

ぼてちんの寝言

先日、“ゲロゲロ”から“ぼてちん”に改名した旦那さん。

今日はせっかくなので、ぼてちんの話をしようと思う。

 

 

私はこれまで、寝言というものはドラマとか小説の中だけのフィクションだと思っていた。

まぁ言ってもせいぜい一瞬、何か言ったかな?と思うくらいのものだろう、と。

 

というのも、これまで現実世界で寝言というものに出会わなかったからだ。

まぁ自分が爆睡していて、誰かの寝言に気付かなかっただけなのかもしれないけれど。

 

だから寝言というのはドラマとかで出てくるフィクションであり、誰かが寝ぼけて言ったことを脚色したり、ちょっとオーバーに表現しているのだろう、と思っていたのだ。

 

…が!!!

ぼてちんと出会って、それが勘違いだということを知った。私の世界が狭かっただけだった。

 

 

ぼてちん、めっちゃ寝言を言うのだ。

完全に喋る。
フルボイスで、はっきりと、まるで起きているかのように、喋る。

 

初めて聞いた時、私の驚きといったらなかった。

一緒に寝ていて、横で急に何かを言うのだ。「あー、それは違う違う」とか「なんでやねん!」とか。起きてるのかと確認すると、熟睡している。

 

一言で終わる時もあれば、夢の中で会話が続いているような時もある。

声色も、怒っているような時と、優しい感じの時と、通常の時と、色んなパターンがある。「フフ…(笑)」と笑ったりもする。なんなら、たまに寝言でも噛むときもあるくらいだ。

まじで起きてるときと何も変わらないから面白い。

 

 

今日はそんなぼてちんの面白かった寝言ベスト3を書こうと思う。

 

 

第3位 「誰と喋っとん?」

 

朝方、ちょっと早めに目が覚めてしまって眠れなかった時があった。

しばらくスマホを触ってると、横から「誰と喋っとん?」というぼてちんの声が。

 

いや、こっちのセリフーーーーーー!!!!!!!

ぼてちんの方こそ誰と喋っとん???(笑)

 

 

似たような寝言で「あー、めっちゃ眠いわぁ…」とかもあります。

いや、あなた今寝てるからーーーーーーー!!!!って、心の底から思った。

 

 

第2位

 

「ほんまに綺麗な瞳をしておるわ。
 君には将来を任せられるね、この先の。」

 

 

こんな長い文章を、本当につらつらと話すんだから、まじ寝言ってすごい。

唐突にこんなことを言い出すから、横で寝てたのに普通に笑ってしまった。で、スマホでメモ取った。それくらい面白かった。

 

ぼてちんが夢の中でどんな立場にいて、どんな人にこの言葉をかけたのか、気になるばかり。でもなんかちょっとお偉いさんの口調というか、しみじみとした口調だった(笑)

 

起きた時に聞いても「覚えてへん。そんなこと言ってたん?」とのこと。ぼてちんの場合、寝言の内容については基本覚えてないです。

 

 

第1位 クサイ夢

 

少し長い寝言。

 

「クサイ、クサイ、クサイ……。 …。 クサい…」

 

ーーー2分ほど沈黙ーーー 

 

「めちゃクサイ…」  (まだ言ってるわ…笑

 

「時々いっしょの匂いがする。クサイ。

あっちと同じ匂いがする。あっちクサイ…」

 

 

ーーーまた少しの間沈黙。先ほどより長いーーー

 

 

「言われへん…

言われへん…舌抜かれる」 (ん?別の夢始まった…?

 

 

「でもクサイ」 (続いてたー!!!!!🤣🤣🤣)

 

「手術しましょうか。……。えぇーーーー…(落胆)。………。なんでクボさんやねん。フッ…(笑)」

 

 

~おしまい~

ずーっと喋ってるのは数ある寝言の中でも割と珍しいので第一位ということで。

夢の中、めっちゃくさかったんやろなぁ…ってかクボさんって誰やねん(笑)

 

 

 

寝言ってコントロール不可能だから、想像してみたらちょっと怖いかも…。

ぼてちんの寝言で知らない女の人の名前とか出てきたら嫌だな…とか思ったこともあったけど、よく考えたら一番怖いのはぼてちん本人だよな…(笑)

ドンマイぼてちん。これからも面白い寝言をよろしくね。

 

追記(2019.06.02)

とうとうぼてちんが、寝言で、口笛を吹いた。

マツコの知らない世界』で使われる曲(トゥッ、トゥルー、ル、ルルルルルルルル♪)を口笛で吹いてた。

やっぱり寝てた。