「元気があれば何でも出来る」は本当か?
治療的家庭教師でお世話になっている生徒さんと数学の勉強をした。
今回の範囲は「命題の逆・裏・対偶」と「対偶証明法」。
この辺りの具体的な学習内容については触れないが、
久しぶりの“対偶”やら“逆”やらに新鮮さを感じながら、私も一緒になって勉強した。
特に対偶証明法は面白かった。
対偶が真であることを証明すると、自動的に命題も真であるといえる、とのこと。
なんだか逆説的な証明で、ひねくれた感じがするのがまた良い。
確実に中学生や高校生の頃に習った範囲だが、その場しのぎの暗記で乗り越えたので、きちんと理解が出来ていなかった。
子どもの頃は理解できなかったことでも、大人になってから理解できるようになることは実に多い。
ある日、ふと「元気があれば何でも出来る」という言葉が頭の中で出てきた。
アントニオ猪木による、大変有名な言葉だ。
実はこの言葉、ちょっと嫌いだった。
なぜなら、なぜかめちゃくちゃ根性論に聞こえていたのだ。
根性ゼロの私には実に痛い言葉のように感じていた。
しかし今回たまたま頭に浮かんで、ちゃんと言葉を吟味してみると、どうやら違うらしい。
「元気」というのは、体調が良い、とか、エネルギーがある、とか、そういうことである。
気持ち、じゃなくて「元気」なのだ。
“勇気”や“やる気”、ではなく「元気」なのだ。
つまり、全くもって根性論とかじゃなかった。
私の勝手な勘違いだった。
勝手に勘違いして、勝手に嫌いになっていた。
それが分かって、この言葉を言ったアントニオ猪木が大変すんばらしい人なのだと思った。
「元気があれば、何でも出来る」
もしかしてこの言葉、めっちゃ核心を突いているのではないか…???
そう思うと、証明したくて仕方なくなった。
本当に「元気があれば、何でも出来る」のだろうか?
その時、思い出したのだ。
最近、生徒さんと一緒に勉強した「対偶証明法」のことを…!!!!!
こんなところで、こんな風に使えるなんて。数学おそるべし。
というわけで、「元気があれば、何でも出来る」は本当なのかを対偶証明法を用いて証明してみたいと思う。
命題「元気があれば、何でも出来る」の真偽を考える。
まず、「元気がある」「何でも出来る」それぞれの反対を考える。
・「元気がある」の反対は、「元気がない」で良い。
・「何でも出来る」の反対は、「何でも出来るとは限らない」つまり「出来ないことが少なくとも1つある」で良いかと思う。
すなわち対偶は、「出来ないことが少なくとも1つある、ならば、元気がない」となる。
もうちょっと日本語を綺麗にするなら、「出来ないことがある時は、元気がない」となる(たぶん)。
つまり、対偶「出来ないことがある時は、元気がない」が証明できれば、命題「元気があれば、何でも出来る」が証明できる。
さて、対偶「出来ないことがある時は、元気がない」。
この真偽を判断するのは、なかなか難しい。
出来ないことがある時でも、元気がないとは限らない。
いつもは出来ることが、なんだか出来ない時。でも、別に元気がないというわけではない。
これはもしや、偽…!!!???!!??!
つまり、命題も偽…?!?!?
やはり、元気があっても出来ないことはあるということか…なんか残念…
と、結論付けそうになったところで、ちょっとだけ考え方を変えてみた。
『もしかして、いつもは出来ることが出来ない時って、自分が自覚していないだけで、本当は元気がないのではなかろうか???』
つまり、「元気」というものをそもそも勘違いしているという説だ。
こうなると、「元気」というものを定義するところから始まる…。
もう完全に迷宮の入り口に来てしまった。
ここで迷宮入りするか、入らずに退散するか…。
正直、ちょっと面倒くさくなってしまっている自分がいる。
うん。今日はもうやめよう。
また気が向いた時に、やるとしよう。いつ気が向くのかは全く分からないけれど。
ただ一つ、今回の試みで気付いたことがある。
これを書いて、今回のまとめとしよう。
今回の気付き。それは、「出来ないことがある時は、“元気がないのだ”と考えてみても良いのかもしれない」ということ。
何かが出来ない時、多くの人は、自分の能力の足りなさを疑うのではないだろうか。もちろんその場合だってあるだろう。でも、それだけじゃない、というのが今回の気付きだ。
自分の能力を疑うだけではなく、単純に“元気がない”という理由を疑ってみる。
そうすると、おのずと解決策の方向性が変わる。
【元気が出るようにする】→休む、気分転換する、寝る、誰かと話す、ストレス発散する、などなど。
元気を出して、もう一回チャレンジしてみても良いかもね。