井の中の蛙 ジンベイを知らず

されど、ほにゃららの深さを知る

職場内いじめについて―児童福祉の現場から―

私は1年前まで児童福祉施設で働いていた。

理由は様々だが、主に虐待を理由に、養育者と共に生活を送れなくなった子どもたちが入所していた。

私はそこで、入所している子どもへの生活指導やカウンセリング、その他養育者との話し合いなどを行い、子どもの自立や家庭復帰の支援をしていた。

 

過酷な仕事内容ではある。

だからなのだろうか。職員の中には余裕のない人も少なくなく、そういう人が、罪のない人たちを傷つけることが多かった。

 

今回は職場内いじめについて書いてみたい。

 

きっかけは元同僚から聞いた話。

 

管理職による面接が今月あるらしい。

この面接は年1~2回。年末には必ずあり、夏頃にあったりなかったりする。

 

今年度はすでに夏にも年末にも面接が行われていた。

それが、3月になって突然、面接をするとのお達しがあったらしい。

 

こんな時期に突然面接が設定されるということは、きっと何かあったに違いない。元同僚はそう思い、他のすでに面接をした同僚から話を聞いたそうだ。

どうやら内容は「いじめをしていないか、されていないか。ストレスはないか」ということのようだ。

 

小学校か中学校のような面接だな、というのが第一印象。

そして、やっとか、というのが次の感想だ。

 

どう考えても、あの職場の雰囲気は終わっている。

被害者はもちろん、加害者も、絶対に居心地は良くない。誰にとっても最悪の職場環境だ。

だから、この面接が職場環境の改善につながってくれれば、と切に願っている。

 

ただ…この面接で「いじめられています」と言える人がいったいどれほどいるのだろうか。

 

私は1年前に退職した。
だからこそ、色々と話しやすい存在なのだろう。私の元に何人も相談や愚痴を話しに来ている。(だから今回の話もすぐに私の耳に入った。)仕事をしている時はあまりざっくばらんに話せなかったことも、今の関係性なら話せるようだ。

 

だから知っている。被害者は大勢いる。

そして(これが最大のネックなのだが)、加害者側の人間は、加害者側にいることに全く気付いていないということも知っている。むしろ、悲劇のヒロインぶる傾向がある

 

今回の管理職面接で、本当に“いじめ”という言葉が使われたのかどうかは怪しいが、もし本当なら、少なくとも管理職側は加害-被害の関係を想定しているのだろう。

 

明らかないじめの事実があれば、それは管理職が本人に指導をすれば良い話なのだろうが、おそらく【明らかな事実】はないはずだ。少なくとも、管理職が本人に指導が出来るほどのものは出てこないだろう。

 

加害者(もうここではきっぱりと加害者と言う)は、他人が見て(聞いて)『これはいじめだ』と思うようなことはしない。

ターゲットに対して、その人の発言に対して食い気味に否定したり、大きな声で発言を遮ったり、相手が一人の時はあからさまに無視したり避けたり。ターゲットに見せつけるようにして他の人に親しげに話しかけたり。ターゲットをいないものとして扱ったり。

最終的には「ターゲットさんの勘違いですよ」と言い逃れが出来るような、そんなことしかしない。もしかしたら「私の言動が誰かを傷つけていたなんて…!」と悲劇のヒロインを演じるかもしれない

 

言ってしまえば“そんな些細なこと”なのだ。

ターゲットにされている側も分かっている。些細なことだ、と。だから言わずに我慢する。なんなら、自分が気にしすぎているだけなのではないか、とも考える。

仲間内でさえ、最初の頃は話せない。あまりに些細なことすぎて、話せない。

 

しかし、どんなに些細なことも、顔を合わせるたびにそれをされ続けていると、さすがに参ってくるのだ。

たとえ小さなかすり傷でも毎日受けていると痛む。心は確実に傷ついている

 

こんな状況で、被害者側はちゃんと声を挙げられるだろうか。

ターゲットにされている被害者も『こんな些細なことで傷ついている私の方がおかしいのではないだろうか』と思ってしまっているのだ。“こんな小さなこと”に傷ついている自分を認めるのは、あまりに辛いことだ。挙句の果てには『相手も余裕がないのだろう…』と加害者をフォローしようとさえしてしまう。

 

そう。確かに、加害者はただただ“余裕がない”のだ。

承認欲求、自己愛、色んなものがごちゃ混ぜになった人である。みんなに自分を認めてもらおうと必死なのだ。誰かに大切にされたくて、必死なのだ。味方を作り、一方で味方を信頼することが出来ず、心が休まる暇がない。

常に余裕がなく、必死で、なりふり構わない。
だから、関わった人はほぼ全員、大なり小なり傷つく。多くの被害者を出している。

 

「そんな人は放っておけば良いのに」

それは、その人と関わらずに済む人の、外野の声だ。

放っておけるなら誰だって放っておきたい。別に、好きでその人と関わっているわけではない。

児童福祉施設という小さな組織で“放っておく”ことが出来るのは、上司や管理職など、立場が異なる人だけだ。
同僚は先輩だろうが後輩だろうが、誰も“放っておく”ことは出来ないだろう。

 

仕事だから。関わらずにはいられないのだ。

大人だから。加害者がするような低俗な“無視”や“拒否”はしないのだ。

普通の、人の傷の痛みが分かる、まさに子ども支援に必要な人材だから。どんな相手にも等しく丁寧に接しようと思ってしまうのだ。

 

実は私も被害者の一人だった。

入職してすぐに、毎日毎日、相手からの“些細すぎる”無視や攻撃を受けた。

最初の頃は完全に自分が悪いと思っていた。気にしすぎだと。相手にもそんなつもりはないのだろう、と。

しかし、全く収まることはなく、むしろ日を追うごとに事態は悪化。
私は精神的にも身体的にも参ってしまった。

そうして、いよいよ辛い、もう辞めたいと思った時、管理職面接の時期になった。
私は意を決して管理職面接でそのことを話題に挙げた。

 

全身傷だらけで、もう痛すぎると思い、藁にも縋る思いで話題にした。

しかし一通り話を聞いてもらって、「まぁ相手(加害者)も必死なんだよ」となだめられた。

 

こんなに悔しいことはあるだろうか。書いている今でも、思い返すと涙が溢れる。

 

相手からされたことは、例えて言うなら、カッターナイフで浅く傷つけられた…いや違う、なんなら、紙やすりで撫でられたような感じである。

そりゃあ「まぁ相手も悪気はないんだよ」と管理職も言いたくなるだろう。

 

でもこちら側は、毎日毎日紙やすりであちこち撫でられているのだ。治ったと思ったらまた別のところ。全身がヒリヒリ痛むのだ。極度の日焼けのように、ヒリヒリヒリヒリしている。

でも、見た目はたいして問題がない

 

これが、あの職場の最悪な環境を維持させている要因だ。

 

管理職に相談して「相手も必死なんだよ」と言われた一件で、私は色々と諦めた。

そして、管理職を頼るのではなく、他機関を使ったり、仲間同士で支え合ったりしながら、同じように傷ついている人を私なりに助けようと決意した。

だから退職した今でも、元同僚たちが話をしに来てくれるし、私も一緒になって解決の道を探しているのだ。

 

声を大にして言いたい。

こんな状況、おかしい!!!!!

「相手も必死」であれば、何をしても良いのか。

 悪気がなければ、何をしても許されるのか。

 

心優しく、素直で、聡明な人が、傷ついている自分を『私は弱い人間だ』と自己嫌悪し、傷つけてくる相手のことを『あの人も余裕がないんだ』と言い聞かせている。

『自分にも非がある』と思っている。『耐えれている人もいるし、耐えれない私が悪いんだ』と思っている。

 

こんなのおかしい。

絶対に違うあなたに非はない。あなたは悪くない。

 

あなたのような人間こそ、
この業界に絶対に必要な人間なんだ。

他人の傷の痛みが分かる人こそ、
児童福祉という世界で子どもたちをケアして、生活指導して、育ててあげてほしい

 

今回の面接で、少しでも職場の雰囲気が変わればと思う。

これは完全に管理職の仕事だ。ちゃんと事態を把握してほしい。

 

お願いだから、これ以上、こんな悲しい理由で職場を去ってしまう人が出ないようにしてほしい。こんな理由で去ってしまう人ほど、この世界では絶対に必要な人材なのだから。

 

こんな形でしか私は関われないけれど、こんな形でも、私は私で児童福祉分野に貢献していきたいと思っている。