価値観の衝突と排除
私たちは、生まれながらに持った素質と、育った環境によって形成されていく。
同じ環境で育った兄弟が、それぞれ異なる性格を持ったり、成績が異なったりするのは、彼らが持つ素質の違いが大きい。
もちろん“同じ環境”といえども、兄と弟とでは“境遇”はまったく異なる。
兄にとっては、これまで自分中心に世界が回っていたところに、弟という存在が突然現れる。
弟にとっては、生まれてからずっと、少し歳の離れた先輩がいるのだ。
様々な要因が複雑に入り組んで、その結果として、今の自分があるということである。
今の自分には、いつ出来上がったのか分からないような、変な価値観があったりする。
それを、心理学用語で「スキーマ」と言う。
この「スキーマ」は、実は常日頃から意識しているものではない。
何かを選択する時、何かを実行する時、誰かと接する時、自分が行動する時に、意識せずとも「スキーマ」が活性化され、私たちの行動が決定されているのだ。
スキーマがあって自分の行動が決定されている、というよりは、自分がなんとなく行動決定をしている背景にはスキーマというものが存在している、という感じのほうがしっくりくるかもしれない。
先ほども言ったが、スキーマは普段意識しているものではない。
もっと言うと、自分が持っているスキーマがどのような内容なのかを知らない人だって多い。それくらい普段は意識していないし、それくらい自分の一部になっているものである。
そういうものなので、知らず知らずのうちに、Aさんのスキーマと、Bさんのスキーマが衝突してしまっている、ということがある。それは大抵、AさんもBさんも互いに『あの人とはウマが合わない』『あんな考え方、人としておかしいわ!』と感じているし、傍から見ていても二人の相性が悪いことは感じ取れる。
もうこれって、仕方ないことなのではないか、と最近ちょっと思っている。
生まれ育った環境が違えば、価値観がそれぞれ異なるのも当たり前である。人と関わって生きていくってそういうものなのだろう。
でも、一つだけ心掛けたいことがある。
それは、自分の価値観と異なるからといって排除しようとしないことである。
どんな価値観であれ、価値観(スキーマ)はその人の根本を支えているものである。つまり、命である。
それを、ただ自分の価値観と違うから、という理由だけで排除するのは、とても危険である。それは逆の立場になった時によく分かることだろう。自分の価値観(つまり、自分の生命の源)を他者に排除されると、どういう気持ちになるだろうか。それを考えたら、やっぱり他人の価値観を排除することは出来ないという結論に到達するだろう。
そうはいっても、人間は弱い生き物であり、自分との違いに敏感な生き物でもある。異質は居心地の悪さを生み、排除の流れになるのは当然のことともいえる。
だから、こうやって文章に残し、自分の意識に上らせたいと思ってこれを書いた。
4月。新しい人間関係が始まる。色んな人に出会う。
そういう機会が増える今、もう一度、当たり前のことを確かめておきたい。