素直になれないお年頃
家庭教師で女子高生のお家に行ってきた。
その時に少しだけ彼女の愚痴を聞いた。
母親と喧嘩した。
全然私のことを分かってくれない。一方的に叱責されて腹が立った。
2日経った今も口を利いていない。
詳しい内容はここでは省略するとして、とにかく母親に自分のことを全然理解してもらえていないと感じ、相当ショックだったよう。
苛立ちすぎていて「もう人生すべてがつらい」とか「こんなことが続くならもう死にたい」「絶望のどん底だ」と、考え方がネガティブな方向に振り切ってしまっている。
私はちょっぴり心理士モードに切り替え、話を聞いていった。
彼女はとっても素直な人だ(と私は思っている)。
悲しいことに全力で悲しみ、嬉しいことに全力で喜ぶ。
表情や態度、雰囲気にもそれが良く出ていて、彼女の様子を見るだけで『あ、今日は元気がないな』とか『今日は機嫌が良いな。何か良いことあったな』と分かる。
その日だって、一目見た時に「あら、どうかしたの?」と第一声を発してしまったほど、彼女はしょんぼりしていたのだ。
先ほどまで「絶望のどん底」だった彼女が、しばらく話を聞いているうちに少しずつ目を合わせて話すようになり、次第に落ち着きを取り戻していく。そんな様子が手に取るように分かるのも、彼女の素直さゆえだと思う。
少しずつ“いつもの”彼女に戻っていった。
そんな彼女が突然、「素直になりたい」と言った。「どうやったら素直になれるんだろう?」
私は驚いた。だって、もうすでにめっちゃ素直だと思っていたから。
そこで、どうして素直になりたいと思ったのかを尋ねてみたら、彼女はこう答えた。
「母親に、あんたは素直じゃないってよく言われるから」
実はちょうど先日、私も旦那さんのぼてちんに同じ言葉を言われたばかり。
「素直になりなさいよ!」
出来てないことを指摘されて虫の居所が悪くなって、とりあえず全力で意地を張ってぼてちんのアドバイスを聞き入れない私に言った言葉だ。
『私もそれ、知りたい~~~~~~~~~~~~!!!』
頭の中で私は『私もこの前言われたの~~~~~!!!!!』と彼女の手を取ってぶんぶん振り回した。
そんな騒がしい脳内にそっと蓋を閉め、私は冷静を装って「どうすれば良いんだろうね」と返した。
今は彼女の話を聞く時間だから、私の事情は必要ない。
彼女は「んーーー」と悩み、しばらく黙り込んだ。
私は私で、彼女の発言を待ちながら、頭の後ろの方でどうやったら素直になれるのかを考えた。
少しの沈黙の後、彼女は
「その場ではまだ素直になるのは難しいけど、落ち着いた時に思い直すことがあった時は出来ればメールとか手紙とかで謝る!」
と宣言した。
賢いなぁ、ほんと。
私はただただ感心するばかりだった。
そして、『それ良いね!私もそうする!』と頭の中でメモをした。
意地を張る時って、自分の非がこれでもかってくらい分かってる時だと思う。
出来ていないことがあって、でもスルーしてきた。そしてこのままスルーしてもらえたら助かったけど、やっぱり見つかったか~~~って感じ。
そして、それに対して悔しいやら情けないやら恥ずかしいやら色んな気持ちが入り混じって、『もう触れないで~!!!!』と思ってしまう。
自分が出来ていないところを指摘されて、「分かってる!」って答えたら「じゃあやりなさいよ!」と怒られる。
そして、『やれたらとっくにやってるわ!出来ないからこうなってるんや!』と心の中で逆ギレする。
で、「出来ないの!」と返すと「なんで最初からそう言わないの!」「出来ないなら聞きなさい!」とこれまた怒られる。
指摘された時点で、もう何言っても怒られる(笑)
一番良いのは「そうですよね、言ってくれてありがとうございます」と素直に受け取ること。。。。だって言ってくれなかったらスルーし続けていたんだろうし。
……なんだけど…
そんなの無理だぁぁぁぁぁぁあああああ!!!(叫)
そんな理想を頭の片隅に置きつつ、女子高生の彼女が宣言したことを参考に「まずは落ち着いた時にちゃんと気持ちを伝える」ところから始めてみようと思う。
…ので、ぼてちん、気長にお願いします。
強すぎる価値観「~すべき」
少し前に知人とこういう話をした。
あるレストランでのこと。
子どもがお皿の中に手を突っ込んだり、大声を出したりしていた。それに対してその子の母親は『これが私の教育スタイルです』と言わんばかりに、子どもに注意したり叱責したりすることなく平然と過ごしていた。
周りのお客さんは迷惑そうにチラチラとそのテーブルを見ていた。
しばらくして、お店の人がそのテーブルに声を掛け、最終的にはその親子はお店を追い出された。
「それは大変でしたね」と私が言うと、知人は「どう思う?」と。
質問の意図が分からずにいると、
「この母親は、周りの反応から、自分の教育スタイルを反省するべきだと思うのだけど」
つまり、どうやら彼は【周りの反応を見て、自分の間違いに気付くべきだ】と主張したいらしい。
心理学的には、この「~すべき」という考えは、他者との色んな衝突を生むことが知られている。(認知行動療法ではこの価値観を「べき思考」と言ったりもする。)
「~すべき」というのは、個人の中にあるさまざまな価値観の中でもかなり重要度の高いものである。
本人にとって重要度が高いだけでなく、その価値観が「絶対に正しいもの」であると信じている。絶対に正しいので、他人もその価値観を持つことを強要したり、他人がその価値観に反するような行為をすると非難したりする。
しかし多くの人が知っているように、価値観というものに「正しい」「正しくない」はない。
価値観の正しさは、時代や状況や立場に応じて変化するものであり、色んな見方がある。同じ価値観でも、ある人にとっては正しく、ある人にとっては間違いとなりうる。
先ほどの知人の主張は、少なくとも今の彼にとっては「子育てをする際には、母親が周りの反応を見ながら、自分の教育観について適宜見直す」ことが「正解」であるのだろう。
こうなると、議論の余地はない。
知人は「どう思う?」と私に聞いてきたが、ここで私が何か別の価値観を言ったとしても、それがその知人にとって考えたこともないような新しくて面白い意見でない限り、聞き入れてはもらえないだろう。完全に平行線をたどる。
知人とのその会話は、仕事のミーティングの延長でなされたものである。私は完全に議論する頭でいたが、『あ、これはミーティング(意見をすり合わせる作業)ではないな』と思い、頭のスイッチを切った。
価値観は議論してもあまり意味がない。埋まらない溝が深まるだけだ。
誰かに対して「なんであの人はあんなことが出来るの?!?信じられない!!」と憤慨している時は、自分の強すぎる価値観がないかを考えてみると面白い。
きっと、『こういう時は○○すべきだ』とか『人は○○すべきだ』という価値観があるはずである。
そしてそういう価値観は、あまりに(自分にとって)正しすぎて、当然すぎて、ほとんど無意識のうちに身に付いているものだ。当たり前すぎて気付かない。
ただ、 自分の価値観を相手に押し付けて、それを受け入れてもらえずにイライラするのは時間と元気の無駄遣いだ。
何を隠そう、私も上記の知人との話の際に何か強い価値観を持っていたようだ。
例えば【ミーティングという限られた時間の中では余計な話をするべきじゃない】とか。まだ他にもありそうだ。
あの時、わけもなく不快で、面倒くさくて、イライラしていた理由がこの記事を書いていて分かった。
「~すべき」という価値観は自分を守るものでもある一方で、強すぎるために自分を苦しめる可能性もある。
価値観は誰かに押し付けて、それを聞いてもらえずに勝手にイライラしてしまっていないか、私も注意しなければいけないなぁ。
それって「集中力がない」んじゃなくて、むしろ逆じゃない?って思ったADHDの子の話
いつかの話。
心理面接をしていて、自身の集中力のなさをなんとかしたい、と相談されたことがある。
その子は高校生で、すらりとしたモデルのような体型をしていて、おまけにぱっちり二重のとっても可愛らしい顔をした女の子だった。世間話が大変上手で、世渡り上手な印象を受けた。
話を聞いてみると、どうやら高校生活は結構グダグダらしかった。
ほとんど毎日遅刻し、授業中も居眠り放題。行事の時だけは時間を守るので、クラスメイトからは「普段も時間守れよ」と陰口を言われる。仲の良い友達は数名おり、その子たちが支えではあるが、学校に行っても授業はチンプンカンプンだし、その子はその子で別の友人関係もあるので、なんだか学校に行くモチベーションもない。学校を休むから余計浮くのは分かるけど、朝起きれないし、遅刻するし、とにかく時間を守るのが苦手。
そんな彼女は「時間を守れるようになりたい」と、深刻そうな顔をして言ってきた。
これまでに何か診断を受けたことはあるのかを尋ねると、「ADHDの不注意優勢だ」と。
ADHDは「注意欠陥多動性障害」と訳されるのだが、“注意欠陥”とか“不注意”と聞くと【集中力が欠如している】と思われがちだ。彼女もそう思っていたようだ。「私は不注意優勢のADHD。だから集中力がない。だから時間が守れない」と言っていた。
しかし実はその逆である。
集中力はめっちゃあるのだ。
目についたものに【集中してしまう】。次々に興味が移り、集中の対象を変え、そのたびに集中する。そしてマイワールドに入っていってしまう。
その様子は、何も知らない傍から見れば、【注意力が散漫】とか【ぼーっとしている】ように見える。だから、支援する側の人間は、その子に対して「集中しなさい」と言って“集中させよう集中させよう”としてしまう。
でも、こういう子たちの支援は、逆に“集中を切る”のが効いたりする。
集中してマイワールドに入っていってしまうのが問題なので、集中していたら、“切る”。
別の何かに集中してしまっている今の状況を切る。
集中力がないんじゃなくて、逆にありすぎる。
そう考えると、支援や対策の方向が真逆だということが分かる。
高校生くらいになると、こんな風に「あなたは自分のことを集中力がない人間だと言って落ち込んでいるけれど、そうじゃなくて本当はめちゃくちゃ集中力が高いのでは?」とこちらが気付いたことを伝えてみるだけで、まず自分に対する評価が変わり、そして対策法も考えつく。
彼女も「私って集中力があったんだ…逆にありすぎて別のことに意識が向いちゃうのが問題だったんだ…」と驚いたような顔をしていた。
その後、彼女は「自分はすぐに集中しちゃうから、その集中が途切れるように」と、朝の準備の際には自分の好きな洋楽を流すことにしたと言う。
好きな曲なので、その曲が何分くらいのものなのかが分かっている。曲の変わり目で何分くらい経ったのかが分かるらしく、遅刻が随分減ったらしい。
おまけに好きな音楽を聴いて機嫌も良くなるので、憂鬱な朝の時間にはもってこいの対策だったようだ。
ADHDの子たちって、不注意優勢でも多動優勢でも、やっぱり学校では目立ちやすくて指導の対象になりやすい。それだけで自信はなくなっていくし、学校が嫌になりやすいし、そういう気持ちが募って癇癪を起したりもしやすい。そうするとクラスメイトや先生との関係も悪くなったりする。
つまり、ADHDの問題だけじゃなく、その後の二次的な問題にもつながりやすい。
彼女の場合も、きっと小学生くらいのころから忘れ物が多かったり、遅刻が多くて注意されたりしてきただろう。薬の影響で眠くなって、授業中の居眠りを注意されたりもしただろう。ADHDというハンデだけでも大変なのに、それに伴って別の問題も生じることで事態がより複雑化してしまうことは多々ある。
でも大丈夫。
たまたまかもしれないけど、私の知っている優秀な教授は多動な人ばかりだった。色んなプロジェクトを立ち上げて、色んな分野に顔を出して、大活躍をしていた。
良い意味でも悪い意味でも、全然落ち着きがなかった(笑)。きっとみんな、小学生や中学生の頃は大変な生徒だったと思う。でも大人になって、持ち前の集中力と、興味の移り変わりの速さを活かし、色んなことにチャレンジして、色んな成果を上げていた。
こういう生き方や活躍の仕方があるんだなぁと、私はその人たちを見てしみじみ思った。
彼女にも、持ち前の特性を生かして、これからも社会でどんどん活躍していってほしいなぁ、と願うばかりだ。
「どうして学校が嫌なの?」と聞いても「分かんない」と答える子どもの心理
学校を休んでいる子どもに会った時、「どうして学校に行けないんだろう?」と尋ねてみると多くの子は学校に行きたくない理由について色々と語る。
親に話さなくても担任の先生に話したり、担任の先生に話さなくても親に話したり。
あの人が嫌、テストが嫌、クラスの雰囲気が嫌、友だちと喧嘩した、勉強が楽しくない。友だちに気を使うのが嫌、みんなに避けられている気がする、部活の先輩が嫌。
子どもの数だけ理由がある。
そして1人の子どもの中にも沢山の理由がある。
小さな理由から大きな理由まで、いろんな要素が複雑に絡み合って「学校に行きたくない」が出来上がっている。
『明日は2時間目の理科でテストがある。嫌だなぁ。しかも3時間目は苦手な体育だ。しかもしかも、5時間目に作文の発表があるのにまだ書けてない…。どう書けば良いか分かんない…。風邪引きたいなぁ…熱出ないかな…』
そんなことを願ったことがある人は少なくないはずだ。
一つ一つは些細なことでも、合わさると大きな種になってしまう。
一方で、理由を尋ねても答えてくれない子どももいる。
可能性としては、言いたくない場合と、言えない場合とがある。
どちらの場合も、大人が「どうして学校に行きたくないの?」と尋ねてみても「分かんない」と答える場合が多いのだが、ニュアンスが全く異なる。
言いたくない場合は、自分で問題を解決したいタイプ。負けず嫌いな性格もあって、陰でこっそり努力をしていたりする。
そういう時は、無理に理由を聞き出す必要もないし、きっと自分なりの考えがあってのことなので、そのあたりを尊重しながら見守ったり、状況に応じて適切なサポートをするのが有効だ。
(ただしこういう子の場合はなんでも一人でやろうとするので、それはそれで対応が難しいこともある…が、まぁこの辺りの話は今回は割愛する)
難しいのは“言えない場合”である。
学校は嫌い?と尋ねると、「ふつう」と答え、
なんで学校に行きたくないんだろう?と尋ねると「分かんない」と答える。
先週は学校に来れたけど、それはどうして?と尋ねると「なんとなく」と答え、
昨日はどうして学校を休んだの?と尋ねると「分かんない。面倒くさかった」と答える。
学校に行きたくないのにはおそらく何か原因があるはずなので、大人はそれを知ろうとするのだが、それなのに、大人の質問に対して、当の本人は「分かんない」「なんとなく」「ふつう」なんていう答えを出してくる。
こういう返答を何度もされてしまうと、つい大人の側は『適当に返事をしているだけ』『質問から逃げている』『またはぐらかされた』『考えようとしていない』と捉えて、腹が立ったり、無力感に襲われたりしがちである。
そうなると、不必要に対立してしまう。話し合いどころか、お互いに気持ちがすれ違ってしまって、また別の問題が引き起こされてしまう。
さて、そんな状況に対して、どうやら本人たちは本当に「分かんない」ようだぞ、というのがスクールカウンセラーとして働く私の感想だ。
学校が嫌な理由が小さすぎるのかもしれないし、たくさんありすぎるのかもしれない。
これという理由はないけれど、些細なことが積み重なってこの状況を引き起こしたのかもしれない。
もしかしたら自分の気持ちを感じ取るのが苦手なのかもしれない。
理由はどうあれ、とにかく本当に「分かんない」し「面倒くさかった」のだろう。
分かんないものに向き合うことほど、面倒くさいことはない。
勉強をしている時に、解ける問題が続く時は調子よく取り組むが、難しい問題が出た途端に集中力が途切れるのと同じだ。
人生の問題も同じだ。
学校の何が嫌?とか聞かれてもなんか全然分かんない。ちょっと考えてみたけど、あー、もうなんだか全部が面倒くさい。ゲームしよう。
そうなるのも無理はないのだ。
ただし、無理もないことだからそっとしておいてあげましょう、という話ではない。
とにかくここで伝えたいのは、ただその場しのぎで「分かんない」と答えているのではなくて(まぁそういう場合もあるのだけれど…)、本当に分かっていない可能性があるということ、そしてそんな正体不明の原因に向き合うのはそれなりの元気が必要になるということだ。
子ども自身も自分の気持ちを探る必要があるし、大人の側だってあれこれ想像を巡らせて、質問して、一緒に探していく必要があるのだ。
面倒くささや苦痛があるうえに、時間もかかる作業だ。そんな作業を、色んな大人が色んな方向からちょっとずつサポートをして、本人が少しずつ進めていくものだと私は思っている。
不登校の子どもに対してどんな支援が出来るのか、は私がここ最近ずっと考えていることだ。
学校に行くことだけが正解ではない。学校を休むことだって、時には正解となる。
学校に来れるように働きかけるだけがスクールカウンセラーの仕事の仕事ではないだろうし、学校に行けるようになることだけがゴールではないはずだ。
何が正解で、何が不正解なのか、なんて時代によっても状況によっても変化する。
ただ…
世の中なんて分かんないことだらけで、これから先の人生でも「分かんない」「納得できない」「面倒くさい」ことなんてきっと山ほど出会う。それでも立ち止まってばかりじゃいられない。立ち止まれる時もあれば、とにかく前を向かなきゃいけない時もある。
そう思うと、ただ立ち止まるばかりで体力を消耗して、前に進めなくなってしまうのはもったいない気がしている。それしか方法を持っていないというのは、生きづらいんじゃないかなぁと個人的には思っている。
だからカウンセリングを通して、「分かんない」状況に対するその子なりのやり方を一緒に見つけていきたい。そうやって、最終的には、上手に息抜きしながら、安定して学校に来られるようになれば良いなぁと思っている。
数学の点数を上げる方法
最近の家庭教師の時間は、もっぱら数学を教えている。
高校生になると途端に難しくなる。
日常生活に結び付くような具体的なイメージが持ちにくくなり、なんだかよく分からないけれど公式を覚えて使い慣れていく、というような単元が増える。
今回の授業は、三角比の範囲だった。
さいん、こさいん、たんじぇんと。
高校生だった私も、当時はそれが何なのかがさっぱり分からなかったが、公式だけは徹底的に覚えてテストを乗り切った記憶がある。
家庭教師で教えている高校生の生徒も「まとめノートを作らなきゃ」と言って、教科書を見ながら公式を書き出していた。
そこに違和感を持った。
他の教科はともかく、数学は公式を覚える作業は少なくて良いと思っている。数学の公式は英単語のように覚えるものではない。
覚えようとする前に、教科書に載っている公式を見ながら、とにかく問題を解いていった方が良い。
数学の問題を解く、というのは「料理」に似ている。
料理にはレシピが存在する。数学の公式がレシピに相当する。
数学の問題を解こうとする際にまず公式を覚えようとすることは、料理を作るためにまずレシピを覚えようとするのと同じだ。
材料を覚え、分量を覚え、手順を覚える。何度も何度も、レシピ本を見て覚える。
しかし、想像してみたらすぐに分かるように、レシピを覚えたからといって料理が出来るとは限らない。
そもそも身体を動かさずにレシピを覚えるなんて難しすぎる。ましてや、料理初心者が頭だけを使ってレシピを覚えるなんて無理だ。
料理が作れるようになりたければ、まずはレシピを見ながら順々に工程を進めていく。一度で上手く完成することもあれば、失敗することもある。何度も作ってみることで、だんだんレシピも覚えるし、上手くいく方法も分かってくる。なんとなく身体が覚えてくれる。
数学の問題を解くのもそれと同じで、公式だけを暗記しても意味がない…というか、完全に効率が悪い。問題を解きながら覚えていく、というのが一番速い。
教科書を見ながら解いてみて、次に教科書を見ずに解いてみて、丸付けして、他にも問題を解いているうちに公式が頭に入っていく。
数学も、料理と同じで身体が覚えていくのだ。
公式は暗記できているのに問題が解けない、なんてことは良くある話だ。
特に高校数学になると、公式をそのまま使えばOK!なんていう単純な問題は圧倒的に減る。むしろ、新しく覚えなきゃいけない公式は減り、これまで覚えた知識をどう使うかが問題になる。
ということは、とにかく問題を解きまくるのが数学の点数アップの近道ということだ。
『あの問題が正解したから、この問題も出来そうだ』と思っても、実際にペンを動かしてみると意外と出来ない問題もある。そんな勘を掴めるほど、多くの問題にはまだ取り組んでいないはずだ。
課された問題は全部解く。ペンを動かして、公式を使うことに慣れる。
面倒くさいし、時間もかかるけど、これが数学の点数を伸ばす一番の王道で、一番の最短距離だと思う。
そう思って問題集を見てみると、コンパクトながら十分な反復練習が出来るように設計されているから、良く考えて構成されていたんだな…と大人になってみて分かった。
「好き」のパワー
私は少し前まで児童福祉施設で働いていた。
様々な事情があって家で保護者と一緒に暮らせない子どもたちが、その施設で共同生活をする場所だ。
最近の施設は、プライバシーの観点から子ども一人ひとりに個室が設けられていることが多い。私が働いていた施設もきちんと個室が用意されていた。
部屋の様子はその子の心理状態を表していると言っても過言ではなかった。
友だちと喧嘩してイライラしている子どもの部屋に行けば、服が脱ぎ散らかっていたり、机の上がぐちゃぐちゃに荒れていた。
部屋の掃除を子どもと一緒にすると、部屋だけでなく、子どもの表情までスッキリした。
几帳面は子どもの部屋は、いつ行ってもきちんと整理整頓がされていた。
大雑把な性格の子どもの部屋は、好きなアイドルの切り抜きやポスターが無造作に壁に貼られていて、タンスの中を見ると衣類がぐちゃっと押し込まれていた。
まさに十人十色。色んな部屋を見てきた。
施設には本当に色んな子どもがいて、それぞれに思い出があるが、その中でも私がとっても好きだった女の子の話を今日は書きたいと思う。
小学校低学年の女の子。
まだ“女子”の暗黙のルールが分からず、率直すぎる物言いをしたり、配慮の欠けた行動をして年上のお姉さま方からは疎まれることが多かった。職員に対する甘えた言動が媚びを売っているような印象を与えてしまうこともあり、友だちを作るのは苦手そうな子だった。
しかし、私は彼女のことが大好きだった。
なぜかは分からないが、私はその子のことがとても可愛く感じた。まぁたしかに、時には苛立ったり、テンションが上がってしつこくなりがちな彼女のことを面倒に思ったこともあったが、それでも基本的にはその子と一緒にいると癒された。
癒された時間の1つが、その子の部屋で色んなものを見せてもらう時間だった。
「私のお部屋に来て♪」と私に可愛くおねだりをする。時にはウインクだってしてくる。その可愛らしさに私は大げさに反応してみせ、そしてノコノコ彼女のお部屋について行く。
これが私たちのいつものパターン化されたやり取りだった。
彼女の部屋は「好き」で溢れていた。
壁には自分で書いたお気に入りのイラストや、大好きな先生と一緒に描いた絵が飾られている。机の上には、好きなキャラクターの小物がたくさん。お友達とつくった折り紙も飾ってある。ベッドにはお気に入りのぬいぐるみが3つ、お行儀よく寝ている。折り紙で作った色とりどりの輪っかの飾りが部屋中に垂れ下がっていた。
彼女の部屋には物がたくさんあってごちゃごちゃしていたけれど、その一つ一つが彼女に大切にされているような感じがあった。
そんなカラフルなお部屋に通されて、私は彼女から色んなものを見せてもらいながら、それにまつわるエピソードを教えてもらった。
学校で作ったもの、最近買ってもらったシール、自由時間に作ったビーズのアクセサリー、友だちからもらったお手紙、学校の先生との交換ノート。
それを見せながら一生懸命話す彼女の嬉しそうな顔で、私の疲れはいつも吹き飛んでいた。
彼女は“好きな物”が本当に多かった。
好きなキャラクター、好きな色、好きな遊び、好きな食べ物、好きなおやつ、好きな服、好きな教科、好きな植物、好きな虫、好きな形、好きな手触り、好きな言葉、好きな先生、好きな時間。
年上のお姉さま方から「そんなもののどこか良いの?」と笑われたり呆れられたりすることもあった。さすがにその場ではしゅん…とするが、すぐに「だって好きなんだからしょうがないよねぇ?」と私にこそっと言う。「好きなものがあるって、素敵なことだよ」と返すと「えへへ」と笑う。
周りから理解されなくても、好きなものは好き!
それを真っ直ぐに表現していた彼女の無邪気な強さに、私はうらやましい気持ちを抱いていたに違いない。
思えば、幼い頃の私は、自分の好きな物を他人に笑われて、それに傷つくだけの子どもだった。
彼女のように「好きなんだから仕方ないよねぇ!」と周りの声を受け流すことだって出来たのに、そんな発想がなかった。好きな物をそっとしまい込んで、出会わなかったことにしてしまう子どもだった。
彼女のように「だって好きなんだもの」と言えたら、もしかしたらもっと世界は広がっていたのかなと思う。
「好き」は、きっと人の原動力だ。
好きだから、探求する。
好きだから、頑張る。
好きだから、大切にする。
好きなものに囲まれて生きている彼女は、きっと強い。
そんな風に私もそうなりたいな。
悪循環をどう断ち切るか
カウンセリングにいらっしゃる方の多くは、大抵の場合、負のスパイラルにはまり込んでいるように感じる。
最後の砦のような感じでカウンセリングを活用するので、カウンセラーと対面した時にはすでに事態が深刻化・複雑化していることが少なくない。
もう少し早く来てくれたら…と思わずにはいられないが、なかなかカウンセリングを受けるということ自体が敷居の高い行為であることは重々承知しているし、そもそも赤の他人に気軽に相談できるような簡単な話でもない。誰にだって見られたくない面はあるだろう。解決しにくくなる問題というのは大体がそういうものである。
何をやっても立ち行かない。もうどうしたら良いのかさっぱり分からない。お手上げ。
そういう状態でカウンセリングに来て、こちらが話を聞いてみると、結構な確率で悪循環にドはまりしている。
例えば、
思春期の娘が言うことを聞かない。暴言を吐く。時には暴力もある。時間にルーズで、遅刻しそうな時も急がない。他の子ともトラブルが絶えない。もう随分長い間、まともに会話が出来ていない。顔を合わせれば喧嘩になってしまう。娘の言葉に傷ついてしまう。生きた心地がしない。
そう涙ながらに語る母親の様子を見ていると、横に座っている娘に対してほんの少しだけ背を向けるような形で座っている。この子はあぁでこうで、と話す時は、ちらっと娘を見やる。当の娘は我関せずといった様子で漫画を読んでいるが、私が話題を振った時に顔を上げることはする。すると母親はすっと顔を背ける。
娘の方にも何か問題があるのかもしれないし、母親の方にも何か問題があるのかもしれない。これだけの情報(母親の言い分)だけでは真相は分からない。けれど、少なくとも母親がすでに我が子に対して苦手意識を持ってしまっていることは一目瞭然だ。
初対面の私が見てすぐに分かるということは、きっと娘の方も感じ取っているはずである。
そういう関わりを家庭内で無意識的にしているとしたら、まともに会話が出来ないのも無理はない。
この場合の悪循環は、例えば、
母親の”娘を恐れるような態度”が、娘を苛立たせたり不安にさせたりして、娘の暴言に至り、それに傷ついた母親はより一層娘を恐れるようになり、コミュニケーションが上手くいかない…というようなことが考えられる。
もちろん、これだけが答えではない。あくまで一例である。
良くない状態が長い間続いているということは【同じことが繰り返されている】と考えることが出来る。つまり、悪循環に陥っているということである。
その悪循環を断ち切れれば良い循環が生まれ、事態は好転する。
悪循環を断ち切る手っ取り早い方法は、新しい風を吹かせることである。
いつもしないようなことをする。
いつも怒っているなら、褒めてみる。いつも悲しんでいるなら、笑ってみる。
いつも言い返してしまうなら、ちょっと我慢してみる。
いつも言わずに我慢しているなら、言い返してみる。
そうすると、いつものパターンに陥らずに、新しいパターンが出現する。
それが良い方に転ぶか、悪い方に転ぶかは、その時の様々な状況に寄って変わってくるが、少なくとも新しい反応があることで、新しい気付きを得ることが多い。
「言い返してみたら、相手がきょとんとして。言い返せたのが自分でも驚きです。」
「ちょっと我慢してみたら、相手が急に反省し始めたんです。相手も調子が狂ったのかな?(笑)」
新しい気付きを得るので、新しい方略も本人が勝手に思いつく。
こうしたらこうなったので、次はこうしてみたら良い気がする、と自然に考えを進めて事態を収束させてゆくのだ。
もし『事態が悪化する一方だ…』と悩む時があったら、悪循環になっていないかどうかを考えてみてほしい。そして、その中で新しい行動が出来そうな所があれば、それをほんのちょっとだけやってみてはどうだろうか。試しに、ちょっとだけ。
心理士として出来ることは、一緒に悪循環を見つけること、悪循環を構成する要素の中で新しい風を吹かせるとしたらどこが一番やりやすいかを考えること、「試しにやってみてはどうだろう」と背中を押すこと、くらいだ。
これだけしか出来ないけれど、それだけは一生懸命がんばりたい。