井の中の蛙 ジンベイを知らず

されど、ほにゃららの深さを知る

「どうして学校が嫌なの?」と聞いても「分かんない」と答える子どもの心理

学校を休んでいる子どもに会った時、「どうして学校に行けないんだろう?」と尋ねてみると多くの子は学校に行きたくない理由について色々と語る。

親に話さなくても担任の先生に話したり、担任の先生に話さなくても親に話したり。

 

あの人が嫌、テストが嫌、クラスの雰囲気が嫌、友だちと喧嘩した、勉強が楽しくない。友だちに気を使うのが嫌、みんなに避けられている気がする、部活の先輩が嫌。

 

子どもの数だけ理由がある。

そして1人の子どもの中にも沢山の理由がある。

小さな理由から大きな理由まで、いろんな要素が複雑に絡み合って「学校に行きたくない」が出来上がっている。

 

『明日は2時間目の理科でテストがある。嫌だなぁ。しかも3時間目は苦手な体育だ。しかもしかも、5時間目に作文の発表があるのにまだ書けてない…。どう書けば良いか分かんない…。風邪引きたいなぁ…熱出ないかな…』

 

そんなことを願ったことがある人は少なくないはずだ。

一つ一つは些細なことでも、合わさると大きな種になってしまう。

 

 

一方で、理由を尋ねても答えてくれない子どももいる。

可能性としては、言いたくない場合と、言えない場合とがある。

 

どちらの場合も、大人が「どうして学校に行きたくないの?」と尋ねてみても「分かんない」と答える場合が多いのだが、ニュアンスが全く異なる。

 

言いたくない場合は、自分で問題を解決したいタイプ。負けず嫌いな性格もあって、陰でこっそり努力をしていたりする。

そういう時は、無理に理由を聞き出す必要もないし、きっと自分なりの考えがあってのことなので、そのあたりを尊重しながら見守ったり、状況に応じて適切なサポートをするのが有効だ。

(ただしこういう子の場合はなんでも一人でやろうとするので、それはそれで対応が難しいこともある…が、まぁこの辺りの話は今回は割愛する)

 

 

難しいのは“言えない場合”である。

 

学校は嫌い?と尋ねると、「ふつう」と答え、

なんで学校に行きたくないんだろう?と尋ねると「分かんない」と答える。

先週は学校に来れたけど、それはどうして?と尋ねると「なんとなく」と答え、

昨日はどうして学校を休んだの?と尋ねると「分かんない。面倒くさかった」と答える。

 

学校に行きたくないのにはおそらく何か原因があるはずなので、大人はそれを知ろうとするのだが、それなのに、大人の質問に対して、当の本人は「分かんない」「なんとなく」「ふつう」なんていう答えを出してくる。

 

こういう返答を何度もされてしまうと、つい大人の側は『適当に返事をしているだけ』『質問から逃げている』『またはぐらかされた』『考えようとしていない』と捉えて、腹が立ったり、無力感に襲われたりしがちである。

そうなると、不必要に対立してしまう。話し合いどころか、お互いに気持ちがすれ違ってしまって、また別の問題が引き起こされてしまう。

 

 

さて、そんな状況に対して、どうやら本人たちは本当に「分かんない」ようだぞ、というのがスクールカウンセラーとして働く私の感想だ。

 

学校が嫌な理由が小さすぎるのかもしれないし、たくさんありすぎるのかもしれない。

これという理由はないけれど、些細なことが積み重なってこの状況を引き起こしたのかもしれない。

もしかしたら自分の気持ちを感じ取るのが苦手なのかもしれない。

 

理由はどうあれ、とにかく本当に「分かんない」し「面倒くさかった」のだろう。

 

 

分かんないものに向き合うことほど、面倒くさいことはない。

 

勉強をしている時に、解ける問題が続く時は調子よく取り組むが、難しい問題が出た途端に集中力が途切れるのと同じだ。

 

人生の問題も同じだ。

学校の何が嫌?とか聞かれてもなんか全然分かんない。ちょっと考えてみたけど、あー、もうなんだか全部が面倒くさい。ゲームしよう。

 

そうなるのも無理はないのだ。

 

 

ただし、無理もないことだからそっとしておいてあげましょう、という話ではない。

 

とにかくここで伝えたいのは、ただその場しのぎで「分かんない」と答えているのではなくて(まぁそういう場合もあるのだけれど…)、本当に分かっていない可能性があるということ、そしてそんな正体不明の原因に向き合うのはそれなりの元気が必要になるということだ。

 

子ども自身も自分の気持ちを探る必要があるし、大人の側だってあれこれ想像を巡らせて、質問して、一緒に探していく必要があるのだ。

面倒くささや苦痛があるうえに、時間もかかる作業だ。そんな作業を、色んな大人が色んな方向からちょっとずつサポートをして、本人が少しずつ進めていくものだと私は思っている。

 

 

不登校の子どもに対してどんな支援が出来るのか、は私がここ最近ずっと考えていることだ。

学校に行くことだけが正解ではない。学校を休むことだって、時には正解となる。

学校に来れるように働きかけるだけがスクールカウンセラーの仕事の仕事ではないだろうし、学校に行けるようになることだけがゴールではないはずだ。

何が正解で、何が不正解なのか、なんて時代によっても状況によっても変化する。

 

ただ…

世の中なんて分かんないことだらけで、これから先の人生でも「分かんない」「納得できない」「面倒くさい」ことなんてきっと山ほど出会う。それでも立ち止まってばかりじゃいられない。立ち止まれる時もあれば、とにかく前を向かなきゃいけない時もある。

 

そう思うと、ただ立ち止まるばかりで体力を消耗して、前に進めなくなってしまうのはもったいない気がしている。それしか方法を持っていないというのは、生きづらいんじゃないかなぁと個人的には思っている。

 

だからカウンセリングを通して、「分かんない」状況に対するその子なりのやり方を一緒に見つけていきたい。そうやって、最終的には、上手に息抜きしながら、安定して学校に来られるようになれば良いなぁと思っている。