中学生と接して思ったこと。『のんびりで良いんだよ』
新学期が始まって2週間。
大人の感覚だと『たった2週間』だ。
なのに「クラスに馴染めなくて」と相談に来た生徒がなんと数名。
私が赴任したばかりのSCだということは全校生徒が知っている。
いくらSCだからと言っても、私がどういう人間なのかはよく分からないはずだ。
でも、相談に来る。来た。
たった2週間で馴染めた感覚を得ることが出来ている人がどれくらいいるのだろうか。
出来上がっている環境に飛び込む状況(転校生とか、部活入部とか)ならまだしも、新学期というのは、全員にとって“新しい環境”であるはずだ。新しい先生、新しいクラスメイト、新しい教室、新しい勉強。
そう考えると、新学期というのはなかなかスリリングな時期なのだな、と理解した。
相談に来た生徒だけでなく、きっと多くの生徒が、早く新しいクラスに馴染みたくて必死で、どこか浮ついていて、誰かを出し抜こうとしたり、置いて行かれないように自分のペースを倍速にしたり、誰かの足を引っ張ったり、なんかそういうことをしちゃうんだろうな…。
みんな結局「早く落ち着きたい」んだろう。新しいクラスは、中学生にとっては、1日の半分以上を過ごす場所。そんなところが落ち着かないなんて、それりゃあしんどいし、疲れるし、気が休まらないだろう。
でも…
のんびりで良いんだよ、本当は。
新学期が始まって2週間で、もう息切れしちゃってるくらいのスピードで走っていたら、この1年間、いくつ身体があっても足りない。
本当は、のんびり様子見しながら、省エネして過ごせば良いのだ。
でも、そうも言ってられないのが中学生。一番多感で、一番友だちが必要な時期である。
だから私はサポートする。
心地良いなと思うペースを自分で見つけられるように、たくさん話を聞いて、サポートする。
自分を甘えさせてあげるということ
友人の様子が最近ちょっとおかしい。
半年くらい前はなんてことなかったのに、先日会ってみたら明らかに“落ちて”いる。
「体調は良い」「身体は元気」と言うが、なんだか疲れているような雰囲気がある。
話を聞いていると、今まではしていなかったようなものの捉え方をしている。
「あの人が嫌だ」「○○の仕事が納得いかない」「どう考えてもあの人の言動はおかしい」
彼はかなり柔軟な人だ。そしてバランスが良かった。
自分の意志を確認しながら、相手の意志もなるべく配慮の入れて、折り合いの付け所を見つけるのが上手な人という印象だった。
そんな彼が、ここ最近はさっきのような口ぶりをする。
だいぶ参っているようだった。
だから私に連絡を寄こしてきたのだろう。
何をするわけでもないが、お酒を飲んで、美味しいご飯を食べて、何時間も話をして、ほんのちょっとすっきりした顔をして帰っていった。
仕事も4年目になり、任されることが増えてきたようだった。
3月に先輩が2人辞め、その仕事の多くが彼に回ってきた。責任のある立場に立たされる案件もあるようだ。プレッシャーいっぱいの仕事を、一手に引き受けようとしている。「自分が(その班で)一番上になったから、誰も頼れない」とこぼしていた。
なんだか話を聞いているだけで、ここ数か月、彼が随分ストイックに過ごしている様子がうかがえた。
元気でエネルギッシュな時期にストイックになっていれば、私の何も気にならないのだが、どうやら彼は、毎日の仕事に疲れてしまって、上手くコントロールが出来ずにストイックになっているような印象だった。
なぜ人は、疲れてるのに、しんどいのに、つらいのに、休みたいのに、そんな時に真逆の行動をしてしまうのだろう。
私もかなり心当たりがあるのだが、疲れすぎていたり、ストレスが溜まりすぎてしまった時に、なぜかめちゃくちゃ律儀になってしまう。小さな汚れや、小さなミスが気になり、掃除を徹底的にしたり、仕事で細かい誤字脱字までチェックしたりしないと気が済まなくなってしまう。仕事や雑務が増えるので、余計に疲れる。
彼もそのような負の連鎖にはまっているような感じがした。
こういう時は、どっぷり自分を甘やかしてあげるのが一番だったりする。
そうアドバイスをすると「ここで自分を甘やかしたらどんどん悪い方向へ行く気がする」と拒否感を示す人がいるのだが、そうやって言う人ほど、大抵そうはならない。どんどん悪い方向に行く前に、やっぱりストイックなスイッチが入るのだ。
どっぷり甘やかしてあげる。サボる。手を抜く。
そしたら、何かが回復する。窮屈だった心が回復したり、枯渇していたエネルギーが回復したり、とにかく大事な何かが回復する。そうなってから、またいつもみたいにストイックに生きていけば良いのだと思う。
今度彼に会った時にまだ疲れたままだったら、「ちょっと試しに自分を甘やかしてみたら」と提案してみようと思う。
ストイックを続けて心も身体も調子を崩してしまったら、元も子もなくなるもの。
人を自宅に招待すること
私は幼い頃から「人を家に呼ぶ」ということに強い憧れを抱いていた。学校には持っていけないお気に入りのおもちゃを、大好きな友だちにも見てもらう。自分の好きなおやつを、一緒に食べる。学校生活では見えない私服姿を見せあう。学校では出来ない遊び方、過ごし方をする。それはとてつもなく楽しく、幸せなことのように思っていた。
しかし残念ながら、実家ではその憧れが実現することはなかった。
家はゴミ屋敷だったし、そんな家に人を呼ぶなんて出来るはずがなかった。また、ゴミ屋敷になる随分前から、母には「家に人を呼んではいけない・人の家に遊びに行ってはいけない」と釘を刺されていた。「家にお呼ばれしたら、こちらも招待しなくちゃいけなくなるでしょう」とも言われた。
大学生になり、誰の目も気にせず、友だちの家に遊びに行けるようになった。そして、一人暮らしを始め、私も友だちを家に招待出来るようになった。
それはそれはとても楽しいことだった。人を家に招待し、一緒にご飯やお菓子を作り、ゲームをして、TVを見て…自分の家の中にいながらほんの少しの非日常を感じられることに物凄いよろこびを感じた。
なにより、人を家に呼ぶということで、自分の料理のレパートリーも増えるし、家の中の清潔さも保たれる。さらに“おもてなし”も、たまになら結構楽しい。相手がくつろげるように色々と考えたり試したりすることは、意外と自分の中で満たされるものがある。
もちろん、家にお呼びするのは仲の良い友人に限定されるが、他人が我が家に来るというのは、やっぱり良い効能もある。
この楽しさをいつでも味わえるように、私は日ごろから家の清潔さをそれなりに保っている。私はゴミ屋敷で育ったので、あまり家の清潔さに頓着がないのだが、それだと友人を招待することが出来ないのを知っているからだ。友人が「今から家に行っても良い?」と急に連絡を寄こしてきても、30分で人様に見せても全く恥ずかしくないくらいに家中を綺麗に出来る。いつも綺麗ピカピカ、はさすがに心が疲れるので、ストレスなく続けられる程度の綺麗さを維持している。それは自分の精神衛生上も、そして共生する旦那のゲロゲロのためにもよろしい。
昨日久しぶりに家に友人が遊びに来て、やっぱりめちゃくちゃ楽しかった。
これからもたまには(本当に、たまに、くらいで良い)人を家に呼んで、楽しい時間を過ごしたい。
他人を一人で嫌いになれない人 ―みんなで悪口を言う集団の核心―
私は、好き・嫌いってどうしようもないものだと思っている。
直感で『好き!』って思ったら好きだし、『なーんか嫌い…』って思ったらそれは嫌い。
そこに理由なんてないと思っている。
しかし世の中には、自分がある人のことを“キライ”な理由を、あの手この手で正当化しようとする人がいる。
一人でやっていてくれれば何も問題はないのだが、困ったことに、自分の“キライ”に自信が持てない人は、色んな人にその“キライ”を共感してもらおうと必死になる。そして、嫌いでいることに他者からのOKをもらって、仲間を作って、集団で“キライ”を主張するのだ。女子に多い現象である。『私(私たち)があの人のことをキライなのは、あの人に○○なところがあるから』という理解をして、『あの人が悪いから、私(私たち)は嫌いなのだ。私(私たち)は悪くない』と正当化する。こうなってしまうと、結構タチが悪いもので、“私は悪くない”ので、平気でその人を貶めるようなことをしてしまったりする。そういう卑劣な行為でも『だって、あの人が悪いから、そんなことをされても仕方ない』と本気で思い込んでいるのだ。
どうして単純に「私はあの人が嫌い。理由なんてない」と胸を張って言えないのだろうか(いや、そもそもそんなことを他人に宣言する必要はないのだが)。
おそらく、自信がないことに加え、誰かを嫌いになることにとてつもなく抵抗感があるのだろう。生まれ育った環境がそうさせたのかもしれない。親や学校から「誰とでも仲良くしましょう」と言われ続け、知らないうちに『人を嫌いになってはいけない』と思い込んでしまったのかもしれない。
しかし残念ながら、嫌いに思う人って、たぶんどこに行っても出くわす。
その相手の人柄や見た目などに関係なく、もう単純に、本能レベルで、好きと嫌いが出てしまう。
これはどうしようもないことだ。
どんなに悲しい毎日を送っていても、お腹が空き、眠くなるように、人に出会い、その人のことを好きになったり嫌いになったりするのは、当たり前のことである。
しかし、どうしようもないことだからこそ、私たちは『誰も嫌いにならないでおこう』とするのではなく、ましてや誰かと一緒になって、嫌いという気持ちを無理に正当化するのではなく、嫌いになってしまった人に対しても、人としての礼儀を忘れず、最低限のマナーを持って接する必要があるのではないだろうか。
たしかに、その人のことを嫌いになるあなたは別に悪くはないが(なぜなら人の好き嫌いはどうしようもないものだから)、誰かを巻き込んで自分の抱える“嫌い”を正当化をして、挙句の果てにその嫌いな相手を貶めようとするのはいかがなものかと思うよ。
そういう人に巻き込まれないよう、私たちは自信を持って生きていかないといけない。
価値観の衝突と排除
私たちは、生まれながらに持った素質と、育った環境によって形成されていく。
同じ環境で育った兄弟が、それぞれ異なる性格を持ったり、成績が異なったりするのは、彼らが持つ素質の違いが大きい。
もちろん“同じ環境”といえども、兄と弟とでは“境遇”はまったく異なる。
兄にとっては、これまで自分中心に世界が回っていたところに、弟という存在が突然現れる。
弟にとっては、生まれてからずっと、少し歳の離れた先輩がいるのだ。
様々な要因が複雑に入り組んで、その結果として、今の自分があるということである。
今の自分には、いつ出来上がったのか分からないような、変な価値観があったりする。
それを、心理学用語で「スキーマ」と言う。
この「スキーマ」は、実は常日頃から意識しているものではない。
何かを選択する時、何かを実行する時、誰かと接する時、自分が行動する時に、意識せずとも「スキーマ」が活性化され、私たちの行動が決定されているのだ。
スキーマがあって自分の行動が決定されている、というよりは、自分がなんとなく行動決定をしている背景にはスキーマというものが存在している、という感じのほうがしっくりくるかもしれない。
先ほども言ったが、スキーマは普段意識しているものではない。
もっと言うと、自分が持っているスキーマがどのような内容なのかを知らない人だって多い。それくらい普段は意識していないし、それくらい自分の一部になっているものである。
そういうものなので、知らず知らずのうちに、Aさんのスキーマと、Bさんのスキーマが衝突してしまっている、ということがある。それは大抵、AさんもBさんも互いに『あの人とはウマが合わない』『あんな考え方、人としておかしいわ!』と感じているし、傍から見ていても二人の相性が悪いことは感じ取れる。
もうこれって、仕方ないことなのではないか、と最近ちょっと思っている。
生まれ育った環境が違えば、価値観がそれぞれ異なるのも当たり前である。人と関わって生きていくってそういうものなのだろう。
でも、一つだけ心掛けたいことがある。
それは、自分の価値観と異なるからといって排除しようとしないことである。
どんな価値観であれ、価値観(スキーマ)はその人の根本を支えているものである。つまり、命である。
それを、ただ自分の価値観と違うから、という理由だけで排除するのは、とても危険である。それは逆の立場になった時によく分かることだろう。自分の価値観(つまり、自分の生命の源)を他者に排除されると、どういう気持ちになるだろうか。それを考えたら、やっぱり他人の価値観を排除することは出来ないという結論に到達するだろう。
そうはいっても、人間は弱い生き物であり、自分との違いに敏感な生き物でもある。異質は居心地の悪さを生み、排除の流れになるのは当然のことともいえる。
だから、こうやって文章に残し、自分の意識に上らせたいと思ってこれを書いた。
4月。新しい人間関係が始まる。色んな人に出会う。
そういう機会が増える今、もう一度、当たり前のことを確かめておきたい。
考えること=想像すること
最近知った私の欠点。それは「想像力がちょっと乏しい」ということである。
これをやったらどうなるか、あれをやったらどうなるか、とても簡単なことがちょっと分からない。
例えば、狭い道を無理くり歩いたら、壁に身体が当たる。その壁がコンクリートなら、身体の当たった部分が擦れて傷が出来たり、服が破けてしまう。当たり前だ。でも私はそれが分からない。
分からない、というとちょっと語弊があるかもしれない。
正しく言おうとすると『壁に身体が当たってケガをしたり服を破いたりしてしまうかもしれない、という考えが行動中は浮かばない』という感じだ。
頭の中は『この狭い道を通るぞ!』という意気込みでいっぱいなのだ。
それゆえ、私には周りの人が不思議がるような失敗も多い。
特に子どもの頃は、母から「ちょっと考えれば分かるでしょう…」と呆れられたり、「もっとちゃんと考えなさい」と叱られたりしたものだ。
今までずっと私は、自分自身のことを「考えることが出来ない人」だと思っていたが、たぶんどちらかというと「想像力が乏しい人」であるようだ。
私の想像力が乏しい原因は何だろう、と考えてみた。
理由はおそらく、幼少期から今までにかけての経験不足が大きいと思っている。
自身の臆病な性格や、負けず嫌いでプライドの高い性格などの要因もあるとは思うが、私はとにかく失敗することが怖かった。それは幼い頃からすでにそうだった。
そんな私は、常に安全な道を通り、親が良しとする道を進んだ。困難もあったし、道中には失敗もあったが、親が設定した“正しい”道の上だととりあえず安心だった。
そんな面白くない安全な人生を送っていたので、とにかくその道以外の情報を持っていない。だから、ある程度自己判断が出来るような年齢になって、自分で道を選べるようになった時に、何が問題点で、どんな困難がありそうか、ということがまったく想像つかなかったのだ。
自分が歩む道を自分で選ぶ際には、それなりの下準備というものがあるだろう。
想定される問題、想定される困難、その道を選んだ時のメリット・デメリット。このくらいは誰でもそれなりに考えるのではないだろうか。
しかし私には“下準備をする”という発想さえ、持ち合わせていなかった。
だから、傍から見ると私は、とても勇敢な人間か、何も考えていないただのアホか、に見えるのだ。そして少なくとも母親から見た私は、どうやら後者であったようだ。
だから彼女は、口すっぱく「ちゃんと考えなさい」と私に言っていたのだ。
なるほど。どうやら、【考えること】というのは【想像すること】であるらしい。
つまり【想像する】ということは、思っている以上に能動的で積極的な作業であるようだ。
「考えなさい」と言われるよりも「想像してみなさい」の方が、幼い頃の私にはしっくりきたかもしれないなぁ。
”好き”のエネルギー
中学生や高校生に「何が好き?」とか「何をしている時が楽しい?」「好きなことって何?」と尋ねると、「分かんない」とか「ない」などの答えが出てくることがたまにある。
「今何がしたい?」と質問を変えても「特にない」と答える。
別に私との関係性が悪いとか、その子が適当に答えているとか、そういうのが原因ではない。もちろんそういう時もあるけれど、今回はそのような場合は除く。
そういう子どもに出会うと、ものすごく寂しいような悲しいような、そんな気持ちになってしまう。
色んなことをしてみたら良いのに。
好きなことをしたら良いのに。
いっぱいチャレンジしていっぱい失敗すれば良いのに。
でも、それが出来ない。
理由は色々あるが、『“やるべきこと”が多すぎるから』という理由が多い気がする。子ども自身も親も学校の先生も、みんながみんな、“やるべきこと”“やらなきゃいけないこと”で毎日が埋め尽くされてしまっている。
でも本当は、特に子どものうちは、一番の“やるべきこと”は、“好きなことに出会う”ことなのではないかと思う。
自分はこういうのが好きで、こういうのに囲まれていると幸せに感じる。
好きなことをしている時間が楽しい。好きなことがあるから、生きていられるのだ。
そういうものに子どものうちに出会うことは、人生を送るうえで大変重要であると思う。
大人になって辛いことがあっても、またそこに戻ることが出来るからだ。そこに戻って、一休みしたり、回復したりしながら、理不尽で生きづらい世の中を生きていくのだ。好きなものがあるから、頑張れるし、踏ん張れる。好きなものがある人って、強い。
もちろん大人になってからも好きな物には出会える。好きな人にも出会える。どんどん“好き”が増えていく。
ただ、自分の中の“好き”の基準が作られるのは、子どもの頃だろう。その基準は、出来れば多い方が人生楽しいと思う。大人は、子どもの頃に培ったその基準を用いて“好き”“キライ”を分類していくのだ。
大人になって“好き”の基準が出来上がっていないと、「自分が何が好きなのか分からない」という状態になってしまう。自分の好きなものが分からない状態は、楽しいとか、ワクワクするとか、そういうエネルギーの源になるような感情が生まれにくい状態である。そんな状態で、この複雑怪奇な社会を生きていくのは大変だろう。
好きなことをする。
でもその前に好きなことを見つける。好きなことに出会う。
そのためにも、子どもたちには、面白そうなことや興味を持ったことには片っ端からチャレンジしていってほしい。自分のアンテナに引っかかったのなら、それは“好き”との出会いの可能性があるということだ。