井の中の蛙 ジンベイを知らず

されど、ほにゃららの深さを知る

ゲロゲロ、改名するってよ♪

先日、愛する旦那さんのゲロゲロから「ゲロゲロと言う名前を変えてほしい」という要望があった。
カエル大好きな旦那さんにちなんでゲロゲロという名前を付けたのだが、私としてもなんだかしっくり来てはいなかった。だって鳴き声だし(笑) 名前感が薄いのが欠点だった。

 

 

どんな名前が良いの?と尋ねると

 

ボテチン」と。

 

ぼてちん…????

 

 

カエル大好きなゲロゲロ。

カエルの中でも【真ん丸としたふっくらボディなカエル】をこよなく愛するゲロゲロ。

自分までふっくらボディになりつつあるゲロゲロ。

初めてでも大丈夫! ベルツノガエルの飼い方・育て方

( ↑ 彼の愛読書。これを読んで ”カエルを飼いたい欲” を鎮めている)

 

たしかにそんなゲロゲロには「ボテチン」という、ぽってりとした名前が似合っている気がする。良い響きだ。ぼてちん。

 

採用!

 

 

ちなみに「ボテチン」は、昔のメダルゲームで登場していたキャラクターの名前だそう。幼い頃の彼はそれが好きだったらしい。

 

そのメダルゲームについて調べてみると、どうやら『ぴょんぴょん』という名前のゲームで、カエルのキャラクターがレースをしたり、ルーレットをしたりするもの。

昔は駄菓子屋さんとかゲームセンターとかにあったらしいが、今現在はその会社自体がなくなっているらしく、もう出会うのは難しそうだ…。残念。

 

『ぴょんぴょん』にはたくさんのカエルがいて、それぞれに「ぴょんぴょん」「オウメ」「ケロリーヌ」などの名前がついている。そしてその1つが「ボテチン」である。

画像検索したが、ボテチンは見つからなかった。彼曰く、名前の通りボテッとしたフォルムの、いかにも遅そうなカエルで、だからめっちゃ倍率高いらしい。

 

キャラクターを選択すると、そのキャラクターの名前が呼ばれる仕組みになっているよう。ボテチンを選択してメダルを賭けると「ぼてち~ん!」と可愛い音が鳴る。なんかめっちゃ良い。可愛い。

 

 (YouTubeで「メダルゲーム くるくるぴょんぴょん」と検索してヒットした動画で聞いた。無断転載禁止とのことでここに載せるのは断念。その動画は、最初の25秒くらいでメダルを入れる音がなって、そのあとに「ぼてち~ん!」って言う。めっちゃ可愛い!!)

 

 

ぼてちん、一気に好きになった。

 

というわけで、これから旦那さんが登場する時は【ぼてちん】という名前でいこうと思う。

「頑張れば出来る」の落とし穴

大学院生になるまで、何をするにも常に全力疾走だった私。

自分の苦手なことや嫌いなことでも「全力疾走」という隠れ蓑を使って乗り切っていた。全力疾走なので確かに疲れも半端ないが、全力疾走だから『苦手だ』とか『嫌いだ』とかいう感情にも向き合わずに済んだ。全力疾走だから、失敗してもそれほど怒られることもなかった。むしろ助けてもらえることの方が多かった。「全力疾走」は、本当は弱くてドンクサイ私をカモフラージュしてくれる貴重なアイテムだった。

 

しかし、大学院生になって、自分の能力以上のことが求められるようになった。

教授の言っている話が分からない、先輩のアドバイスも分からない、授業もチンプンカンプン、初めての上京で土地感覚もないし頼れる友人もいない。
分からないこと尽くしで、これまであらゆる局面を「全力疾走」で乗り越えてきた私も、入学後2か月で息切れしてしまった。息切れというか、「全力疾走」をしても全然成果が出なかった。走っても走っても、求められるゴールが遠かった。

 

ここへ来て初めて、自分のこれまでのやり方が通用しないことに気が付いた。

どんなに頑張っていても、助けてくれる人はいなかった。いつも一人で何かと戦っているような、そんな感じがしていた。

 

幸運にも担当の教授は私を大変可愛がってくれた。「元気があって良い」「それで良い」と言ってくれた。そして「東京という土地柄も関係しているのかもしれない。関西とは人間関係の勝手も違うだろう」と教えてくれた。「東京は、そしてこの大学は、かなり競争意識が高い。関西ではみんなで協力するのが当たり前だったかもしれないが、ここではそれは難しいかもしれない。異世界に留学してきたと思いなさい」と笑った。

 

私の悲惨な大学院生活を支えてくれたのは、担当の教授だけではない。同期の存在も大いに助かった。その中でも、私と同じく関西出身のY君は心強い存在だった。

 

彼は常に落ち着いていて、めちゃくちゃ穏やかな人である。課題や実習が積み重なると「やばいわ~」「もうイヤや~」とか言うが、それが全然やばそうじゃない。『絶対大丈夫やん』といつも横で思っていた。結果、やはり彼はいつも大丈夫だった。

 

彼は親しみやすいだけでなく、能力も高かった。色んな雑務もそつなくこなし、もちろん専門知識もきちんと備わっている上に英語もペラペラなので重宝される人材だった。

 

そんな彼に、一度だけ質問をしたことがある。

「どうしてそんなに余裕があるの?」

 

私の周りの先輩方は総じてレベルが高かった。完全に雲の上の存在だった。でも、余裕のある人とない人がいるように感じていた。

全般的な能力が高いからといって余裕が生まれるわけではないということは、彼を見て知っていた。

 

彼の答えは、当時の私にとってとても意外なことだった。

まず「そんなに余裕はない」と笑われた。その答えは、周りとのレベルの差に震えていた私をほんの少しだけ安心させた。
そして「6割くらいの出来栄えでOKって思ってやっている」と教えてくれた。さらに私がしんどくなっている原因も教えてくれた。「頑張ったら出来る、は自分の本当の能力じゃない」。

 

彼の言い分はこうだ。

★6割の出来栄えでOK、と思っているので、先生や先輩にダメ出しされてもあんまり凹まない。だって6割だから。

★6割の状態で投げるからレスポンスは速い。そしたら色々と悩む時間も無くなる。投げたものが返ってきてからまた考える。

★6割の状態が自分の今の実力。それ以上のことは今は出来ない。これは仕方ない。

 

この最後の【6割の状態が自分の今の実力】という考え方が、当時の私にとっては目からウロコだった。衝撃だった。あまりに衝撃的すぎて全然理解できなかったし、受け入れられなかった。

 

それまでの私は「頑張ったら出来るのに」「やろうと思ったら出来るのに」とうじうじ悩んだり、先輩にダメ出しされて傷ついたりしていた。『本当はもっと出来るけど、今は調子が良くなくて出来ないだけだもん』と本気で思っていた。

だからいつも “本当の自分” が戻って来るのを待っていた。今の自分の状態は40点くらいだけど、いつもなら80点くらいのパフォーマンスが出来るからそれを目指さなければ…!と燃えていた。そして当たり前のように80点に到達するわけもなく、落ち込んだ。その上、出来もしないことをやろうとするから体力だけが無駄に消費されていた。

 

今思うと、私の全力疾走体質は大学院入学後2か月で完全に息切れしていたのだから、私の本来の姿(最高の状態)を知っている人なんていなかったのだ。傍から見れば「“今は”調子が悪いだけ」ではなく、「この人はこういう人」という状態だったのだろう。つまり、最初から私は “40点の人” だったのだ。

 

まぁでもやっぱり【6割の状態が自分の今の実力】という考え方は、当時の私には実感を持って理解することが出来ず、私は全力疾走と息切れを繰り返しながら、どうにかこうにか大学院生活を完走したのだった。

 

今になってあの時の自分を思い返すと『きちんと40点だったなぁ』と思う。

そんな状態をあの時にちゃんと認めることが出来ていれば、あれほど苦しい院生生活を送らずに済んだのかなぁと思ったりもする。

 

 

「頑張れば出来る」は裏を返せば「頑張らないと出来ない」ということだと思う。

“頑張る”というのは、今の自分の実力をフルパワーで発揮することだ。
つまり「フルパワーを出せば出来る(フルパワーを出さないと出来ない)」ということだ。

 

それを“出来ること”=“自分の能力”と計上すると結構キツイことになるのではないかと今なら思う。常にフルパワーで過ごすことはなかなか出来ることではない。

自分の能力を見誤る時ってこういう時なのかもしれない。

フルパワーの自分と、6割くらいの自分とは、区別して考えた方が良さそうだ。

 

6割の自分のショボさは、なんとも恥ずかしいやら悲しいやらの気持ちになるけれど、その状態を知らないと苦しい息切れの人生が続くことになる。それは絶対にキツイ。もうイヤ。だから、へなちょこな自分もそのまままるっと受け止めて、そこから少しずつ成長していける人になりたいなぁ。

人と自分を比べること

私はスクールカウンセラーとして中学校に行くことがあるのだが、悩める中学生の多くが他者との比較で落ち込んだり卑屈になったりしている。

 

「私はみんなと比べて、話すのが下手」

「みんなは○○が出来るのに、私は出来ない…」

 

中学生という思春期真っただ中の時期は、他者との違いや類似点を見つけながら、自己理解を深めていくものである。なので、この時期の子どもたちの他者比較は仕方ないことではある。

 

 

巷では『人と比べない生き方』とか『他人と自分を比較しない』とかを推奨し、人と自分とを比較すること自体を避けようとする意見を聞く。

【他者と自分を比べるから落ち込むのだ、それならば比較しなければ良いのだ】という論法なのだろうが、果たして本当に“比較しなければ良い”のだろうか。

 

 

私の夫であるゲロゲロは、いつも自分のペースでどんどん自己成長を進めていく人である。しかし彼が成長していく途中で、人と自分とを比べて卑屈になっていたりする印象が全くないので、『これはもしかして他者比較をしないタイプの人間なのか…?!』と思い、話を聞いてみた。

 

私「人と自分を比べたりする?」

 

ゲロゲロ「ん…??めっちゃしてるやん?あいつは(俺と比べて)アホや、とか、あの人は(俺と比べて)仕事が出来る、とか、いつも言ってるやん」

 

「たしかに…!!!!!(笑)じゃあ、すごい人と自分を比べて、そのあとどうするん?」

 

「その後は、その人がなんですごいんかを考えて、その人のことをもっと知りたいって思うから話を聞いてみたり、どんどん仲良くなっていって…」

 

「すごい人が目の前にいて、落ち込んだりせえへんの?」

 

「せえへん。だってそんな暇ないもん。逆に、アホな人ら見て喜んでる暇もないけど。」

 

あー!!これだ!!!!と思った。

人と比べて、落ち込んだり、喜んだりしている暇はない。

この人は自分が成長することしか考えていないのだ。貪欲にずっと走り続けている人。そういえば私は彼のそういうところに惚れたのだ。

 

そして、「そんな暇ない」はとっても良い言葉だと思った。

 

 

限られた時間のなかで、自分がどれくらい成長して、この人生を終えるのか。

そう考えると、人と比べて落ち込んだり喜んだりしている暇なんてない。

 

いや、落ち込むのも喜ぶのも、とっても人間らしい感情ではある。その感情を否定しているのではない。ただ、その感情に何日も何か月も何年も浸っている暇はない。浸っていて楽しいわけでもあるまい。(楽しいのであれば、それはそれで良い人生だろう。)

 

 

人はたぶん、人との比較がまったくない状況では成長しない。他人の存在があるから成長するのだ。あの人に勝ちたい、1番になりたい、もっと上手くなりたい、そういう気持ちが成長を促すのだ。他人の存在がない中で向上心は生まれない。

他人と自分とを比べるからこそ、自分が劣っているところを認識できる。欠けているところに気付くことが出来る。一人っきりでは、自分のことさえ知ることは出来ない。

 

そりゃあ、たしかに比較ばかりでは心が荒んでいってしまうだろう。しかし、だからといって比較することを全部やめようとするのは短絡的すぎる。何事もバランスが大切なのだ。

 

適度な競争と適度なマイペース。

良いバランスを自分の中で見つけながら生きていければ良いと思う。

 

今の私はちょっと疲れ気味だから、マイペース多めで、でもたまに人と比べてちょっぴり焦ったりしながら、のんびり成長していきたい。

転送届を出していたのに郵便物が届かなかった話

今から半年ほど前の話だが、ふと思い出したので書こうと思う。

 

 

郵便で手紙を送る、ということを想像してみてほしい。

……うん。田舎に住むおばあちゃんにしよう。

電話でも良いけれど、最近耳が遠くなっていて、電話は難しい。

ちょっぴり怖がりなおばあちゃんは、スマホにも手を出していない。

会いに行けたら一番だけどなかなか時間が取れそうにない。

 

そうだ手紙を送ろう。

 

そう思ったあなたは手紙を書き、最近の写真を同封し(孫の顔を見て喜ばないおばあちゃんはいない)、切手を貼ってポストに投函した。

 

『これで完了!』

数日後、おばあちゃんは孫からの手紙に心が温まることだろう。

 

 

そう思うはずである。

書いた手紙をポストに投函し、『よし!完了!』と思うはずだ。

 

 

ここで誰が『きちんと届くかなぁ…』と本気で心配するだろうか。

 

届いて当たり前。おばあちゃん家のポストに入って当たり前。

幼い時から慣れ親しんだ郵便システムに何の疑問も抱かないのは当然のことだろう。

 

 

 

私は半年前、エントリーした企業からの受験票が届かない、という事態に陥った。

 

長引いた夏の暑さがようやく落ち着いた10月のある日。

仕事がひと段落してスマホを見ると、見知らぬ番号からの着信履歴が残っていた。しかも3回も。

 

どこだろう…と思って、留守電を聞いてみる。すると、2か月ほど前にエントリーした企業からの連絡だということが分かった。「至急ご連絡下さい」とのこと。

転職活動のため、いくつかの求人に応募していた。その1つだった。

 

なんだろう、と思いながら、問い合わせてみた。すると…

 

 

「受験票をお送りしたんですが、もしかしてお引越しされましたか?」

 

たしかに8月にエントリーし、9月に引っ越しをした。応募当時はまだ前の住所だったはずだ。

「9月に引っ越しました」

 

「あー、やっぱり。今その住所に住んでいる人から連絡があって、返送してもらっているところなんです。新しい住所を教えてもらえますか?もう一度お送りしますから」

 

慌てて新しい住所を先方にお伝えする。

これから採用面接に挑む企業に対してもうすでにお手数をおかけしているという状況に、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 

 

が、しかし、おかしい!!!!!!!

だって私、ちゃんと転送届を出したもん!
引っ越す前に!!!!
こういうことがないように!!!!!!

 

 

引っ越してからすでに1か月が経っていたが、その間に何度も転送シールが貼られた郵便物が届いていたのだ。転送サービスの申し込みがきちんと出来ているかどうかは、もう検証済みである。

 

一応その旨も伝えた。私の非ではないことは伝えておきたかった。

「転送願いは郵便局にすでに出していて、これまでもきちんと届いているのですが…どうしてなのでしょう。お手数をおかけして申し訳ありません」

 

すると相手も「そうなんですか?!」と。「では、郵便局側の手違いですね」と言ってくれた。
さらに「では、こちらで確認してみます。転送できるはずです。もし届かないことがあっても、試験当日、今から言う場所に直接来てくださって大丈夫です。住所は…」と話が進んだ。

 

『確認してみる、ってどういうこと??』と今でも疑問だが、なんと数日後、「郵便局側の手違いだったようです。新しい住所に転送してもらえるそうなので、数日後には届くと思います」と連絡が入った。

 

こんな確認、出来るんだ…。すごいね、郵便局。すごいね、あなた。

 

そしてまた後日、今度は郵便局の方からも連絡があった。その電話には移動中だったため出ることが出来ず、留守電にメッセージが入っていた。

「○○様からの郵便物を△△様(私のこと)の旧住所に配送してしまいました。郵便物は現居住者の方からお預かりして、これから転送処理をしますので、ご確認をお願いします」という内容。

 

なんで私の電話番号を知ってるんだろう…?と疑問に思いつつ、個人情報云々について問い合わせする気にもなれず、結局スルーした。

 

 

そんな感じで、結局2次試験に間に合う形で受験票は無事に新しい住所に届きました。

めでたしめでたし。

 

という話。

 

 

今回の件で思うこと。

現居住者の方、本当に良い人で良かった…!!!

明らかに「多分重要なものが入っているだろうな」という感じの郵便物だったというのもあるだろうけど、本当に、適切に対処してくださった現居住者の方には感謝しかない。しかも、わざわざ企業に連絡までしてくださったということだろうから、まさに神対応。こんな人に私もならねばならない。

「ぷぷ…。前の人のやつだ。開けちゃお~」「捨てちゃお~」とか思う人じゃなくて本当に良かった。

 

なんで電話番号を郵便局が知っているの…?

これって郵便局の人は調べられるっていうこと?それとも、今回のやりとりの中で、企業側が必要と判断して郵便局に私の電話番号を教えたということ?どっち??どちらにせよ、私の知らないところで私の電話番号が知られているというのはこのご時世なんだか怖い話である。

 

郵便サービスってめっちゃ重大なサービスなんだな…

今回の件があって、郵便が届かないって本当に致命傷になりかねないな、と思った。

この一件で、私の企業からの心象はいかに…?!?!とか思ったし、結構重要な書類が普通に郵便で送られてくるし、“郵便が届かないリスク”なんて微塵も考えたことがなかった。

どうりで、郵政民営化される前まで国が担っていたわけである。こりゃ重大な事業だ。

郵政民営化」って、私が小学生の頃に叫ばれていた法案だった。小学生だった私は何の意味も分かっていなくて、とりあえず「郵政民営化」というワードだけが記憶に残っている。

その当時はきっと賛否両論あったはずだが、その“否”の理由が今回の件でちょっと分かった気がした。

これまで国が責任を持ってやっていた事業を、民間の企業にお任せしようとしていたということだもん。重要書類がきちんと届かなかった場合に、何か損害が出たとしたら、民間で保証されるのか…???とか思うと、そりゃ賛成できない人もいただろうなと推測。怖すぎるでしょ、普通に。

 

 

今、水道の民営化が話題に上がっているけれど、これも似たような話だと思う。

ここで熱い意見が書けるほど情報を持っていないし、整理も出来ていないから今回は書かないが、今回の「郵便が届かなかった事件」で感じた気持ちは、水道の民営化を考える際にも使える気がする。

水って生きていく上で絶対に必要なライフラインだから、あんまりテキトーに考えてちゃいけないよなぁ。そう思うと、私もちゃんと勉強しなきゃいけないなぁ、知らないことが多すぎるなぁ、と反省するばかりだ。

 

 

毎日きちんと届いている郵便物。
もしかしたら届いていなかったものもあるのかも…?とか考えだすと怖すぎるし、キリがないのでやめにしよう。そうしよう。

相手が子どもだからって適当な受け答えしてんなよ!って話

私は今、中学校でスクールカウンセラーをしている。

高校生か大学生の頃に「人が成長する」「育つ」ってことに不思議を感じ(『成長って何なの?』っていう疑問)、一番成長が著しい時期である“子ども”を対象とした仕事がしたいと思い始めた。

 

“子ども”と“成長”が組み合わさる仕事と言えば、王道なのが「教師」。学校教諭や保育士、幼稚園教諭などがぱっと浮かんだが、全然しっくりこなかった。理由はただ一つ。学校の先生って嫌いだったのだ。大嫌いだった。

 

そんな私が今は学校で働いているのだから、人生って何が起こるか分からない。

 

 

私の中で「学校の先生」というのは、理不尽を押し付けてくる人、という印象だった。

 

例えば小学校3年生の時。

シャーペンが禁止だった。でも私はどうしてもシャーペンが使いたかった。だって書きやすかったから。鉛筆の軸の細さが手に馴染まなかった。もう一回り太いものが良かった。

 

私はいつも先生にバレないようにこっそりシャーペンを使っていたが、まぁそりゃバレていた。

このまま野放しにしておいてもらえるわけもなく、先生はわざわざHRの時間を使って再度シャーペン禁止のルールをクラス全体に徹底しようとした。

誰かが「どうしてですか?」と尋ねた。私はその子に心の中で拍手した。『よく聞いてくれた!私も理由が知りたい!!』 すると先生は「子どもの筆圧ではシャーペンの芯が折れてしまうから」と言った。

 

この答えに、私は心の底からがっかりしたのを今でも覚えている。

 

普通にクラスの子たちも「えー」「折れないよー」「大丈夫なのにー」と口々に言っていた。

私も心の中で思っていた。

『いや、実際使えてるから…!!!折れへんから…!!!少なくとも私は使えてるから!!!』

 

いつもシャーペンを使っていて、芯が折れることなんてなかった。

むしろ、鉛筆はすぐに先が丸くなるし、なのに8mm四方の小さなマス(原稿用紙とか)に字を書かせようとしてくるし、絶対にシャーペンの方が書きやすいだろう、と沸々していた。

 

 

シャーペンが禁止の理由なんて、完全に学校側の都合だ。

大人になった今考えてみても、それしか思いつかない。

子どもの成長を考えた際に、シャーペンがNGな理由はない。そりゃ小さい子に最初からシャーペンを渡すのは間違っている。クレヨンから始まり、鉛筆になり、シャーペンになる。しかし子どもの成長スピードなんて個体差が半端ない。小学3年生だろうが、鉛筆ゾーンをとうにクリアしている児童もたくさんいたはずだ。

 

 

あと思い出すのは小学校4年の時。

突然、担任の先生に「話がある」と放課後居残りさせられた。絶対に良くないことだった。雰囲気で分かった。でも私は基本的に目立たず、反発もせず、おとなしく過ごしていた方だったので、怒られる理由が全く分からなかった。

 

放課後の教室に私と先生の2人っきり。

私は先生に連れられ、教室の真ん中に行った。私の座席だ。

 

すると先生は「昨日、みんなが帰ってから机を綺麗に並べていたら、あなたの机がやけに重くて」と話し始めた。「なんでこんなに重いんだろうと思って机の引き出しを見たら、教科書が全部入ったままじゃない」と。

 

『なんで勝手に開けるねん』が第一印象。『私の机やぞ。他の子の引き出しも開けてるんかいな、この先生は。気持ち悪い』

 

そう思いながら「はい…」と相槌を打った。

正直、この時点で何が悪いのかが私にはまったく理解出来ていなかった。単純に、先生に自分の机を勝手に見られたことが気持ち悪いと思っただけだった。

 

「どうして持って帰らないの?勉強できないでしょう」

 

ここでようやく、『あ、なるほど。置き勉しているのを怒られているのか』と気付いた。

しかし馬鹿正直な私は、馬鹿正直に置き勉の理由を話した。

 

「家に教科書のコピーがあるんです」(嘘じゃない)

 

この答えを聞いた先生は一瞬驚いたような顔をした。私はその変化を見逃さなかった。

「全教科のコピーがあるので、持って帰らなくても勉強はできます。やってます」「ノートだけ持って帰っています」と重ねた。実際、教育熱心で厳しい母に育てられていた私は毎日ちゃんと宿題も提出していたし、なんなら成績もトップだった。

 

まぁでも、こんなことを言う生徒が可愛いわけはない。

先生は一瞬で怒りスイッチが入り「コピーがあっても、全部持って帰りなさい!」と言い放った。

 

これほど意味不明なことはなかった。

先生が先に示した「学校に教科書を置いていたら→家で勉強できない」の方程式を崩したはずなのに、それが通らなかったのが不可解で仕方なかった。

 

その先生のことは前々から嫌いだったということもあり(若い女の先生で、お母さんと仲の良い生徒を露骨に可愛がっていた)、それ以上は何も言わずにランドセルに教科書を詰め込んだ。

先生はその様子を見て、職員室に戻っていった。

 

次の日からは、教科書を隠す場所を変えた。先生に机の引き出しを開けられる可能性があるということを知った私は、見られても支障のないものだけを机の中に残し、あとは“体操服BOX”に入れた。ついでに変な絵を描いて机の引き出しに入れておいた。先生が引き出しの覗いて、びっくりすれば良いと思った。

 

今になって振り返ると、あの先生は今の私よりも少し年下で、教師3年目くらいの先生だったのではないかと思う。結婚したばかりの先生だった。しばらくして産休に入ったから、体調的にも精神的にも不安定な時期だったのだろう。

 

 

まぁこんなことがあり、私にとって学校の先生(特に小学校の先生)というものは人が嫌がっていることを押し付けてくる存在であるという認識をしていた。

 

 

大人と比べて子どもの方が考え方はシンプルだ。良くも悪くも知識が少ないからだ。

だから、特に禁止理由を子どもに伝える時は、その理由が本質を突いたものでなければならないと思う。

 

何を言っても「はー?!」とその場では反発するだろうが(そりゃ子どもだから)、大人になって振り返った時に『おー、なるほど』と思えれば、それってとてつもなくすんばらしいことだろう。

 

社会人になってからずっと、子ども(小学生から高校生まで幅広く)と関わる仕事を続けているが、叱ったり、何かを禁止する時にはいつも『本当にこの禁止ルールは子どものためなのか?』と頭を使っていたが、それは、こういう経験が子どもの頃にあったからか、と今はじめて繋がった。

自分の言葉が、何年も後になってその子どもの頭の中でふと繋がってくれれば、それほど嬉しいことはない。

高校1年生に思うこと ー勉強のことー

今日、高校生の子の家庭教師に行ってきた。

高校受験も無事に終わり、4月に高校生になったばかりなので、最近は1週間に1回のペース。

 

1週間ぶりに授業をしたのだが、それが大変で大変で。

 

何が大変かというと、まず1週間の学校の授業で進んだ量の多さ。やっぱり速い…!!!たった1週間でめっちゃ進んでいる。

そして、難易度もやはり上がっている…!!!!1つ1つの問題が重い。

 

本人も驚いている。

 

話を聞いてみると、授業中はただひたすら理解も出来ずにノートを取っているだけ。授業スピードが速いから、とにかく必死にノートを取っている。

家に帰っても、予習はもちろん復習なんかも全然していない。新しい友だちと仲良くなるのに必死で、正直勉強どころではない様子。

 

めっちゃ分かる。そうだろう。高校生活ってきっとそういうものだ。

 

でもそんなだから、本人も授業内容について「なんかよく分かんない気がする」と言う。

 

そりゃそうだ。

分かんないまま1週間も過ごせば、「よく分かんない」状態になるに決まっている。

 

これ、毎日やれば、全教科合わせてもたった1時間程度で復習できるくらいの量のはずである。

それをやらないから、こんなとんでもない量にまで「よく分かんない」が膨れ上がっているのだ。小さな「よく分かんない」が積み重なって、膨大な「よく分かんない」になっているのだ。こりゃ強敵だ。

 

ここまで「よく分かんない」が大きくなると、やる気は削がれる。 何が分かんないかも分からないような面倒くさい問題に、立ち向かう元気もなければ時間だってないはずだ。

 

だから…!!!!!

まじで、ほんのちょっとで良いから、毎日復習して~!!!少なくとも、自分が書いたノートの意味くらいは分かるようにしておいて~!!!そんで、「やっぱ分かんねぇな」と思ったら、次の日に学校の先生に質問してみなよ~!!!

 

テスト前にちゃちゃっと勉強する…という方法では限界がある。

まだ高校1年だから、と言って気を抜いている場合ではない。高校1年で勉強のペースがつかめないまま大学受験勉強に突入したら、どこから手を付けて良いか分からない状態になってしまう。そうなるとちょっと時間が足りない。

 

だまされたと思って、毎日ほんのちょっとで良いから、せめて復習だけでもしておくれ。

中学生と接して思ったこと。『のんびりで良いんだよ』

新学期が始まって2週間。

大人の感覚だと『たった2週間』だ。

 

なのに「クラスに馴染めなくて」と相談に来た生徒がなんと数名。

 

私が赴任したばかりのSCだということは全校生徒が知っている。

いくらSCだからと言っても、私がどういう人間なのかはよく分からないはずだ。

 

でも、相談に来る。来た。

 

たった2週間で馴染めた感覚を得ることが出来ている人がどれくらいいるのだろうか。

出来上がっている環境に飛び込む状況(転校生とか、部活入部とか)ならまだしも、新学期というのは、全員にとって“新しい環境”であるはずだ。新しい先生、新しいクラスメイト、新しい教室、新しい勉強。

 

そう考えると、新学期というのはなかなかスリリングな時期なのだな、と理解した。

 

相談に来た生徒だけでなく、きっと多くの生徒が、早く新しいクラスに馴染みたくて必死で、どこか浮ついていて、誰かを出し抜こうとしたり、置いて行かれないように自分のペースを倍速にしたり、誰かの足を引っ張ったり、なんかそういうことをしちゃうんだろうな…。

みんな結局「早く落ち着きたい」んだろう。新しいクラスは、中学生にとっては、1日の半分以上を過ごす場所。そんなところが落ち着かないなんて、それりゃあしんどいし、疲れるし、気が休まらないだろう。

 

でも…

 

のんびりで良いんだよ、本当は。

新学期が始まって2週間で、もう息切れしちゃってるくらいのスピードで走っていたら、この1年間、いくつ身体があっても足りない。

本当は、のんびり様子見しながら、省エネして過ごせば良いのだ。

 

でも、そうも言ってられないのが中学生。一番多感で、一番友だちが必要な時期である。

だから私はサポートする。

心地良いなと思うペースを自分で見つけられるように、たくさん話を聞いて、サポートする。